こころあそびの記

日常に小さな感動を

家庭という単位

 

 昨日も今日も、窓を開けると熱風が吹き込んでくるのは相変わらずのことなのに、落日は六甲山の右肩にかかり初めていることをご存知でしょうか。

 夏の盛りには、川西の奥に沈んでいた太陽が、宝塚になり、いよいよ西宮あたりまで移動してきました。

 明日は旧暦8月15日の仲秋の名月。因みに、満月は翌日16日になりますから、お月見は満月当夜ではないといわれる今年の名月です。

 

 

 そろそろ我慢の限界になった本棚。 

 一念発起して、朝からカーテンを洗濯して、本棚を整理することにしました。

 その間、付けっぱなしにしていたテレビから放映されていたのは、観る機会のない番組でした。

 好きだった”ガイロク“の代わりに、こんな番組が制作されていたんですね。

 ”ガイロク“を制作してみて、人々の生声で最も反響が大きいのは病気のことという経験を生かして(?)作られたのでしょうか。

 サンドイッチマンのお二人が病院へ出張してラジオ放送をします。

 

 

 病を越えて生きることがいかに大変かと想像しますのに、出演された闘病中の方々は一様に、そこを突き抜けておられた感がありました。

 自分の身に起こったことは必ず意味があるといいます。

 彼らはそのことを取りこぼさずに、学ばれていました。

 それは、周りの人たちに感謝できるようになったという声に表れていました。

 健康である時には、見えづらくなる周りの支え。それが、ハッキリと見えるようになるのが病気です。

 クモ膜下出血の後遺症で、高次脳機能障害とつきあっておられる女性。収録後に、坊やが「どうして、ママが突然踊り出すところは言わなかったの?」といって笑わしてから、父と母の手を取って仲良く帰って行く映像が心に染みました。

 

 

 子どもは、小・中・高・大と進むことが大切ではなくて、何を考えて生きるかが問われます。

 病気は当人だけでなく、周りの人間、特に親子間においては深刻です。

 お母さんが病気になった。

 そのとき、何を思ってどうしたか。いつかこのことが子どもの人生の一里塚になるかもしれません。

 よく、読書が人間を練ると云われますが、実体験ほど身につまされるものはありません。

 そういう意味でも、家族は大切な集団です。

 四書五経の一つである『大学』に、「修身斉家治国平天下」という言葉があります。

 修養のできた人間が作る家庭があって、はじめて国家は平安になる。

 いざという時、支え合う大切な家庭を崩壊させようとする不穏な動きがあることは危ういことです。