娘が「お母さん、今よ今!」と知らせてくれたので、急いで裏の高台に上ってみました。残念ながらクライマックスは過ぎていましたが、真っ赤に燃える残照が見られたことに満足した昨夕でした。
赤い色は散乱せずに目に届くから夕焼けは赤い。といわれてもどうもよくわからないのは、じゃあ、散乱する光が空を彩って青空になるのはなぜ?
いやいや、理科の授業でもあるまいし、美しい瞬間に立ち会えたことに素直に感動できたらそれでよし。
その夕焼けから二、三時間後に東の空に満月が上ってきました。
双眼鏡を覗いたら、月面の黒い影がはっきりと見えました。
『ときめく星空図鑑』に、日本人はこの影を“うさぎがお餅をついている”と見てきましたが、他の国では様々に見立てていると書いてありました。
アラビアではライオンの形。
また、東ヨーロッパやアメリカでは女人の横顔と見るらしいです。だまし絵の見方です。黒いところを見るのではなく、白いところを見るのです。
こんなこと一つとっても、地球人の感性はいろいろです。おもしろいねと、相手を寛容できる平和が続きますように。
読み慣れない漫画ながら、大和和紀さんの美しい絵に先導されて、ようやく五巻まで読み終えました。
前回の『光る君へ』では、「自分に起こったことは、すべて物語の種でございます」という台詞が印象的でした。大石さんが、これをまひろに語らせたことに注目です。
ストーリーを制作する人というのは、ご自分の経験や出会いを書かずにいられないという燃える思いを消せないところから出発されるのだと想像したことです。
一生における経験は、人により千差万別。だから、物語の種は尽きないというわけです。
そして、人生の修羅場ともいえる渦中にいるときは、怒り、恐れ、嘆き、悲しみ、悔しさなどといった感情を通り抜けていかねばなりません。それが生きるということでしょう。
そこを、現実逃避したいがために仏門入りしたのでは意味がないように思います。
逃げずに打たれてこそ、後の静けさをありがたく受け入れることができるのではないかと思ったりするのは、まだまだ渦中の証拠でしょうか。
『あさきゆめみし』のラスト近くの吹き出しに描かれた光源氏の思いが、すべての懸命に生きた人へのご褒美であればいいなぁと思っています。
「長くて暗い闇のなかを手さぐりで歩いてきたような・・(略)けれどもいまは目ざめて明るい光のなかに・・すべてが清明に充たされている気持ち」(光源氏)