こころあそびの記

日常に小さな感動を

花にも涙を濺ぎ

 

 娘に誘われて、万博公園のコスモスフェアに行ってきました。

 三連休の翌日なのに大勢で賑わっているのを見て、「みんな疲れてるだろうに」と娘に話しましたら、「やっと終わったから繰り出したのかもよ」と応えます。

 私にも身に覚えがあるだけに、苦笑いしてしまいました。

 

 

 同時開催されていた”ルキア“は本来の色にはほど遠く惜しいことでした。酷暑の影響でしょうか。

 

 

 果樹園を歩いていたら甘い焦がしバニラの香りが匂ってきました。カツラ。もう忘れない木になりました。

 

 

 ザクロの実が割れています。

 

 

 お日様の光を受けて輝くルビー色の実の美しかったこと。

 

 

 ところで、中哲のグループラインで先日から話題になっているのは、学生時代に教科書で習った杜甫の「春望」です。

「国破山河在 城春草木深」というやつです。

 高校時代、自慢じゃないけど漢文なんていつも赤点でしたから、私にうまく説明できるわけもありませんが、皆さんが問題にされているのは、

 「感時花濺涙

   恨別鳥驚心」

という部分の書き下し文です。

 大方の教科書では、”時に感じて花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす“でしょう。

 それを、”花が涙を流し、鳥が心を驚かす“と、「花」と「鳥」を主語と取る訳し方を採用されている方がおられるようです。

 

 

 たったそれだけのことが、論点になるなんて。

 漢字の羅列である漢文は、学者さんによって訳し方が違っていて、今でも、これからも議論は続くことでしょう。

 赤点の私は、そういう学問的なところには全く歯が立たず、興味はもっぱら人の心や行動にあります。

 

 この「春望」にしても、花が涙を濺ぐから、それを見ている人間も花に感じるものがあり、鳥が心を驚かすところを見て、こちらも感じるところがある。

 つまり、お互いに感じあう人と自然。あるいは人間同士もそうでありましょう。

 あなたと私。

 その感じ方が杜甫の時代と少しも変わらないことに、人間としての喜びを感じます。

 AIの時代になっても、人と自然の関係が壊れませんように。と、念じています。