こころあそびの記

日常に小さな感動を

隣国

 

 昼散歩に出たら、西風に押し出された雲が六甲からこちらの方へ送り込まれる様子が見えました。

 シベリア寒気団が上空に近づいているせいだとか。

 北海道ではマイナス16度を観測した地方もあるそうで、設置されたカメラに写る雪景色は都会人には羨ましいことでした。

 

 

 この寒い中、植木屋さんが頑張ってくださっている音が途切れることなく聞こえています。留守番を仰せつかった身としては、贅沢な時間が手に入って喜ぶべきなのに、朝から本をあれこれ開いてみても、注意散漫、集中出来ずにいます。

 ほんの些細な、いつもと違う何かが気になるだけで心の安定を欠くほど、人間は弱いものであることを実感します。

 若いときには、目の前の敵に怯むことなく立ち向かえたのに、この年になれば目に見えないものにさえ脅えてしまう。それが、人生サイクルに計画されたものなのでしょう。

 

 

 上橋菜穂子さんがお母様の看病で出会われた漢方の世界のことを、よしとして書いてくださっています。

 漢方に出てくる「気」というものは胡散臭いと思う人には元から受け入れられないものです。

 しかし、私たちが生きる世には、しっかり計算できる目に見える世界と、あやふやで見えない世界があります。信じられないという人にもいずれ分かる日が訪れると思います。

 それが、いかなるタイミングなのか。多くの人には、生老病死を考えざるを得なくなったときだといえましょう。

 

 

 三島由紀夫陸上自衛隊市ヶ谷駐屯所で自決したのは、私が高校三年生だった昭和45年秋です。

 彼は、この先の日本に希望が見えない。このままいったら日本ではなくなってしまう、という嘆きを訴えて亡くなってしまいました。

 それは、もう五十年余り前のことです。

 それからの日本は彼の失望通りに情けない現実を曝しています。

 しかし、ただ一つの希望があるとすると、それは、日本人には見えないものを信じる精神性が僅かに残っていることだと思われます。

 この国土に住む人たちがこぞって崇めるものがある限り、確かな希望を感じます。

 今日、出会った人に「お元気そうですね」と挨拶を交わしあえる日本であれば、きっとこの国は存続できると信じています。