こころあそびの記

日常に小さな感動を

“生き物”は“息物”

 

 現金オンリーの豊能町の道の駅目指して、いざ出発。こないだのリベンジです。

 ところが、入り口に火曜日定休と張り出されたのを見てがっくり。知らずに来たのは私たちだけじゃなくて、店の前で思いを持て余しておられる方が数人、そして、駐車場はみるみるいっぱいになったのは気の毒なことでした。

 歳末は休まないで、とは勝手な言い分です。

 

 

 それで、一庫ダム公園に寄って帰ることにしました。

 それが、なんと!入り口手前に、赤字で「休園」と書いたボードが張り付けられているのを見たときの落胆は言うまでもありません。

 青空でなかったら気持ちは萎えたことでしょうが、初冬を思わせる山の色を写真に撮れたことで、心を埋め合わせて帰ってきたことです。

 

 

 残念賞代わりに、ちょっとはりこんだランチを食べながら、娘が「お母さん、今日何かなかった?」と訊くのです。

 「えっ?あっ!」そうだ、大学に行く日であることに気づきました。

 なんと、ぼけぼけの日でしょう。

 

 

 校内の道路に、雪だるまならぬイチョウだるまを作った跡がありました。写真では分かりにくいですが、ちゃんと目も口も付けられていたのでパチリ。

 今の若者は、キズつけられることなく育っているので、本当にかわいい。

 私たちが学生だったころの反逆精神は、周囲からの圧力のせいだったのでしょうか。

 人間の姿は時代と共に変わります。それは、その時代に必要とされる姿なのでしょう。何はともあれ、素直に見える現代の若者が作る社会が平和であってほしいと切に願うものです。

 

 

 今日の講義は私の好きな「気」のお話しでした。

 「生きる」ということは「息(いき)る」ということです。

 つまり、私たちが生きているのは、息を、呼吸をしているから。とういうのは、小学生でも知ってます。

 「酸素と二酸化炭素を交換するんでしょ」と答えることでしょう。

 でも、それだけではないんです。先人は「息を吹きかける」ことで、魂が送り込まれると考えました。

 神が息を吹き込むことで初めて物に魂が宿ることは洋の東西を問わずに語り継がれています。

 

  このことは、日常の中に今でも見られます。

 もう直ぐ、年末の大祓がやってきて、神社では三回息を吹きかけた形代(かたしろ)をお祓いしてもらう行事が行われます 。普段深く考えることのない「息」が、実はいのちと結びついていることを知る機会です。

 さらに、もっと身近な例では、寒さでかじかんだ手に、はぁーと息を吹きかけたら温かくなります。それには、自分の中の「気」が健康に巡っていることが前提です。

 

「人、気を得れば則ち生き 

 気を失えば則ち死す」

 

  神に与えられた魂が健やかにこの肉体に住まってくれている間、感謝して生きたいものです。