
お調子者ですから、誰かがいいこと言うてくれると、その気になって信じてしまう質です。
ずっと前に、色彩の勉強してたとき、色名当てがうまかったのを見た先生から褒められて、「色の勉強しはったらいいよ」と云われてたことがありまして、それ以来私を励ます言葉になりました。
もちろん本業とはなんの関わりもない上に、ファッションに全く興味が持てないまま年を重ねて今日に至っています。
でも、根っこに色が好きという気持ちがあるので、絵画や着物でまず惹かれるのは“色”です。そして、自然の色。空の変化や鳥の色。
老眼ですから、だんだん確かな色が見えているのかも怪しくなってきましたが、それでも“色”が好きです。

昨夕、散歩に出たら、夕日に染められた雲が淡いピンクに染まっていました。
この配色は娘の着物の色。あぁ、あの色合わせの上手かった女将さんはこの景色をご覧になっていたのかもと、懐かしく思い出したりして歩きました。

報恩寺さんはすでに閉門されていましたが、掲示板の言葉は新しいものに貼り替えられていました。
「帰っていくべき世界は
今 遇う光によって知らされる」(淺井成海)
浄土真宗西本願寺派のお寺ですから、帰っていく世界は阿弥陀仏のお浄土でありましょう。
問題は、次の「今遇う光」の取り方です。
この言葉を見て直ぐには、今、出会っているすべての人や事象と受け取りました。
よく、憧れのあの人に会いたいと思うなら、その人と同じレベルにならねば会えないと聞きます。
つまり、「今遇う光」とは今、身の回りでご一緒して下さる方々と捉えたわけです。
その人たちに教えて貰っていることを意識すること。そういえば、白衣の汚れを指摘されたなぁ。まだまだの至らなさを自認したことです。

帰宅してから、調べると、「阿弥陀様の無量寿光」とありました。
そうか。ここはお寺ですから、お寺にご縁を結んで阿弥陀様の本願に出会うことが、光に遭遇することという意味だったのか、と少し拍子抜けしてしまいました。
この句の作者である淺井成海さまの本意を聞いてみたい気がしてなりません。
怖いもの知らずの私のことですから、ひょっとしたら、ずけずけとお寺に伺いにあがるかもです。

一つの言葉から、自分の考え及ばないところに想像が広がって、頭の体操ができることが法語の素晴らしいところだと思っています。
お寺さんの信者であろうとなかろうと、貼り紙に注目です。深く考えさせられる法語が書いてあると、そのお寺の前を通るのが楽しみになる私なのです。