
孫娘が暇そうにしていたので、大阪城の梅林にでも連れだそうとしたのですが、何度起こしても、春眠暁を覚えず状態から抜け出せずにいたので、独りで出かけることにしました。
一人で行けるなら、そうだ、薬師寺の壁画を見に行こう。
近鉄電車で生駒を越えるのも久しぶりのこと。意気揚々と着いた薬師寺の拝観受付で、壁画の特別公開は連休あたりと知らされてがっかりしてしまいました。せめて、講話なりとも拝聴できるかと思いましたら、それも今日は予定なしだそうで、今は全山あげて花会式の準備にお忙しいようでした。
今日はこのお寺に縁がなかったものと、長年、心にかけてきた別のお寺を目指すことにしました。
法隆寺行きのバスは一時間に1本しかないのですが、折しも10分あとに来ると聞いてバス停に急ぎました。

法隆寺行きのバスに乗り込んで数十分。有名な金魚の養殖池が点在する町を通過したり、郡山城の周りをぐるっと回ったりして、ちょっとしたバス旅行気分を味わって、無事目的の法起寺前で降り立ちました。
拝観者がほかになかったからか、受付の方から丁寧な説明を受けることができました。
法起寺は、聖徳太子が建立された7ヶ寺の一つです。聖徳太子の奥様の一人、蘇我馬子の娘であった刀自古郎女(とじこのいらつめ)がこの土地に住まわれていたそうです。山背大兄王(やましろのおおえのおう)を生んだお方です。
聖徳太子が亡くなるとき、息子の山背大兄王に母の住まう岡本宮殿を岡本寺にしてくれるよう遺言されました。
「ですから、そこここを(聖徳太子の)奥様が歩かれていたかもしれませんよ」
受付の男性にそう言われたら、有り難さも百倍。昼下がりの国宝の三重塔が青空に映えて見えました。

収蔵庫に入っておられる十一面観音菩薩像(重要文化財)のお顔に池の波紋がゆらゆら揺れているのが映って、いかにも女性のお寺というやさしい雰囲気がありました。

法起寺を退出して、心にかかり続けてきた法輪寺へ向かいました。
会津八一の句碑が迎えてくれるお寺でした。
「くわんのんのしろきひたひにやうらくの
かげうごかしてかぜわたるみゆ」
法輪寺は、私たち世代には、幸田文という人を通して、知る人ぞ知るお寺です。
こちらの三重塔は昭和19年に落雷で焼失しました。それが三十年後に同じ場所に同じ姿で蘇ったのは、二万人を超える寄進が集まってのことだったそうです。
子育ての忙しさを、幸田文全集(岩波書店)を買い揃えることで心を満たしていた私ですから、当時、ドキュメンタリーやエッセイで幸田文さんが法輪寺の三重塔の再建に心を砕かれていたことをずっと追っかけしていました。

拝観受付の女性に、「あの、このお寺の中に幸田文さんが残された足跡はありますか?」と厚かましく訊いたら、呼び鈴で住職さんを呼び出してくださったのには恐縮したことです。
清々しい美しさが匂う女性の住職さまでした。
「幸田先生はそういう方ではありませんでした。今になってようやくお名前を出すようになりましたが、彼女自身は落慶法要にすら来られませんでした」
「彼女らしいですね」
「ドキュメンタリー映像を撮る時もなんとかお願いしてお願いして···なんとか」
西岡常一棟梁と幸田文さんとがこの境内におられたと思うと、同じ場所に立てていることに感激して立ち去りがたい場所でした。
帰りの大和路快速の中で、彼女が法輪寺の三重塔にかけた気持ちは、お父様の書かれた『五重塔』が下敷きとなっていたように拝察しました。