こころあそびの記

日常に小さな感動を

窮める

 

 昨夕、いつもと違う道を歩いたら、初めて見る花と出会えて嬉しく思いました。

 この白くて大きい花はナニワイバラ?邸宅の塀から溢れ出さんばかりに咲いているのを写真で花どろぼうしてまいりました。

 

 

 こちらは、ライラック

 花に疎い私ですが、綺麗に咲いている花に引き寄せられる行動に出てしまうのは、好き嫌いと関係ないようです。

 

 

 先週の花梨の会は、貝原益軒の「養生訓」を久しぶりに取り上げるつもりでした。

 冒頭、大御所の小西さんに近況をお伺いしたところ、「特に変わらず幸せに過ごしています」とお応え下さいました。

 養生の要諦はこれに尽きると思っていますし、貝原益軒もそのように記しています。

 益軒は丈夫でない体で84歳まで生きて、この『養生訓』を残しました。彼は本の中で、「年齢に抗わず、弱った体を受け入れ自然の一部であることを意識して穏やかに過ごすこと」と、説いています。

 変わらない穏やかさは、心のあり方に導かれるものですから、老年期には、体を鍛えるよりも柔軟な心でいるためにはどうすればよいかを念頭に過ごすことが大切です。

 昨日と変わりない明日を過ごすことが最高の生き方としたら、「お変わりございませんか」という挨拶言葉は世界に誇れるものかもしれません。

 

 

 人はなにかの瞬間に、昔の思い出が湧き出ることがあります。老人になると、その懐かしさは胸を温めるものとなってくれることでしょう。

 小西さんが、昔の経験をお話下さいました。

 「ある時、烏に追われた小鳥が私のシャツの中に潜り込んできたんです。中でゴソゴソ動いていましたが、上空で旋回していた烏が何処かに行くまで守ってやりました。まさに『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』ですわ」と。

 凄いです。さっとこんなむずかしい諺が出てくるなんて。

 小鳥に選ばれた小西さんは、きっと神様に選ばれた救いの御子にちがいありません。

 

 

 それからというもの、頭の中から「窮」という字が消えませんでした。

 字の意味に「きわめる」があります。それも、“行けるところまで行き詰める”、という最難度の“きわめる”です。

 じつは忘れもしない、高校の同級生の名前にこの字を使った男子がいたのです。

 高校入学したてで、ウキウキ気分の私たち女子に「男の最終学歴は高校やない」と宣言したことに衝撃を受けました。

 それで、初めて男子の真剣さは尋常でないことを思い知ったという懐かしい記憶です。

 さっき、そっと名前検索したら、ほんとうに雲の上の人になってました。

 自分を窮めたのですね。

 名は体を表すとは、ほんとうであること。そして、親の厳しい思い入れを表現した名前がその子を育てた稀な例ではないかと感心したことです。

 Y君、元気でご活躍下さい。