
目覚めたものの、どこかに疲れが残っているような自覚がありました。二度寝しようかという安きに流れる自分を奮い立たせるために、今日の暦を繰ってみたところ、四天王寺さんの“太子忌”の記述が目に入りました。
北大阪急行に乗れば、天王寺まで乗り換えなしに行けるようになりましたので、それこそ、とるものもとりあえず、顔を洗って萱野行のバスに飛び乗って出発しました。

極楽浄土のお庭の蓮はまだ一つも咲いていませんでした。もう八月の暑さだと人間は大騒ぎしていますのに、自然の順行には、たった一つの乱れもないことに感心させられます。蓮池の真ん中に見える三つの石は阿弥陀如来三尊像に見立ててあるとか。
縁日で賑わう境内の喧騒とは無縁の、ひっそりとしたこの庭が好きです。
蓮池に架かる橋の上で、「蜘蛛の糸」のお釈迦様気分を味わったことです。

園内の小川で半夏生が咲いていました。もう1週間ほどで、雑節「半夏生」ですものね。

金堂で挙行された聖徳太子の本地仏である救世観音の法要を、一から十まで見届けて、いつものように、仏舎利を頭にポンポンしてもらって大満足でお堂を後にしました。
聖徳太子の月命日である二十二日は毎月、自由に伽藍に入れるように各門が開放されています。
そのため、いつもは通らない中門から出てみたところ、以前からの疑問の答えが頂けたようで、うれしくなりました。
この写真のお堂は、「番匠堂」といいます。
たくさん金剛組の旗が立てられています。
旗に書かれた「南無阿弥陀仏」の文字の中に、金槌、鋸、錐などの大工道具が漢字で書き込まれているのが見えますか?
前に来たとき、このことに気づいたのですが、それが金剛組さんの発案なのかと引っかかっていたのです。
それが、今日、この開け放された門を通ったことで、お堂に出会い、由緒書きを読ませていただけたことですっかり腑に落ちました。
593年。聖徳太子が鎮護国家を願って四天王寺を建立された時、太子は伽藍を建立するには、やむを得ず、大地の産物のいのちを断たざるをえないことに意識を向けられました。
それで、大工道具で「南無阿弥陀仏」の名号を書かれ、工事の安全と伽藍の無事建立されることを祈られたそうです。
この旗の意匠は聖徳太子のお考えから発せられたものと分かって、宮大工に縁をもつ私はうれしくなってしまいました。

そして、聖徳太子が大工技術の始祖として曲尺太子(かねしゃくたいし)と尊崇されていることも分かりました。
家で二度寝してたら、この一段の階段は上れなかったことでしょう。いい思い切りだったと満足しています。