こころあそびの記

日常に小さな感動を

新米の味

 

 千日回峰に倣って始めたブログも閲覧回数が二万回を越えてくると、何かを検索すると自分の文章が出てきたりして、長く続けるということはこういうことなのかと思ったりしています。

 さて、青の光明が地上を遍く照らす朝は、もったいない思いでじっとしておれません。

 

 

 おしまいが近づいたキカラスウリが二つ咲いているのを見つけました。

 

 

 と、その側の枝に丸々とした実がぶら下がっているのを発見!

 今の今まで知らなかった。こんな発見が、かたく乾燥した老人の心を緩めてくれたことです。

 私と同年代の方には記憶があるでしょうか。幼い頃、風呂上がりに”てんかふ“をはたかれて真っ白な首をしていましたよね。

 その少しあと、ベビーパウダーなんて洒落た名前になった頃には私たちは大人になって縁が切れました。

 キカラスウリの根っこが、その役割を果たしていたなんて知りませんでした。

 

 

 ところで、先日、次男のご実家から新米が贈られてきました。

 「お母さん、食べてみて!久しぶりに水分だっぷりのもっちりご飯を食べた気がする」と、娘が感激の声をあげました。

 彼女は新米の美味しさ知っているのです。

 それは、田舎から送ってもらったお米を食べて育ったからだと思われます。

 そういう私も、結婚するまで田舎はありませんでしたから、いわゆる町のブランド米の味しか知りませんでした。

 100%の新米がどれほど美味しいか。

 それは食べた者にしか分からないうまさです。

 

 

 なので、羨ましく思って田舎の人に「いいですね。こんな美味しいご飯が食べられて」とこぼしましたところ、「いいや。私たちは古米ばっかり食べてるよ」と返ってきたのには、閉口しました。

 作ってる人は贅沢されていないことに、頭が下がりました。

 今、『チョッちゃん』では、疎開先の様子が描かれています。

 食べ盛りだった母にとって、厳しい生活を強いられた日々であっても、真っ白なお米が食べられることがどれほどの慰めになったことでしょう。

 大阪大空襲の知らせで帰阪する母に、大きな白米のおにぎりを作って持たせてくれた疎開先の人のご厚意を何度聞かされたことか。

 白いご飯をお腹いっぱい食べられることが幸せだなんて、今の若者は思いも寄らないかもしれません。

 この先もずっとずっと、ひもじさを知らずに生きていけますようにと切に祈ります。