
銀木犀が気づかないうちに咲き終わってしまいました。金木犀より一、二週間ほど早く咲くというこの木。金木犀の香りにすっかりだまされてしまったことを申し訳なく思っています。

さて、若い時には恥ずかしくてできなかったことの一つに路傍のお地蔵さんの前で立ち止まって手を合わすということがあります。
これぞ、老人の特権の一つかと思って、老人の仲間入りしたころから真似し始めました。
どなたかがブログにこう書いておられました。
「多くのおばあちゃんは祈り、お菓子やくだものをお供えしました。戦争体験もされたであろうまじめなおばあちゃんたちは、きっと、天道に進まれたことでしょう」
そして、
「その世代までは、そういうことを知っていた」
その最後の言葉が深く心に刺さります。
苦しみを知っているから祈りたくなる。
平和に恵まれて年を取った私たち団塊であっても、親への感謝や子孫の繁栄を願わない者は居ません。
身近な祈りの場は、まずは仏壇。それに加えて、お地蔵さんではないでしょうか。

いつも感心するのは、箕面ドライブウェイの途中にある2体のお地蔵さんです。此処に来るには、下から相当上ってこないとなりませんのに、いつ通っても、生き生きしたお花が供えられています。
自分は運転が不得意ですから、こんな山道のカーブで停まれません。ですから、今日もありがとうございます、と運転しながらちらっと視線を送るのみ。一度は、ここまで歩いて上ってきたいと思っています。

お地蔵さんのことが書かれた本が、確か、本箱で生き残ってるはずと、雨音を聞きながら、や探しして見つけました。
『お地蔵さんのお経』(太田久紀著)という黄色い背表紙の本です。
著者が仏教学者でいらっしゃることも知らずに購入したのですが、「今日は母の命日です」から始まる書き出しに引き込まれた本です。
亡きお母様はよくお地蔵さんを拝む方だったそうです。そんな姿を見て育った人は、また、その母に倣って、仏教の普及に一役買われる方になられました。
この本は『地蔵菩薩本願経』の解説がなされています。お地蔵さんといえば、
一重積んでは父のため
二重積んでは母のため
三重積んでは古里の
残る兄弟わがためと···
という賽の河原の地蔵和讃を思われて、どこかさびしい印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、地蔵菩薩は釈迦の死後弥勒菩薩が出現するまで人々を救済する役目を負うていますから、その働きは広範です。
道端で拝んでいるおばあちゃんは、自分のことなど祈ってないのです。子どものことや孫のこと、そして先にあの世に旅立った者たちへの祈りです。
しかし、この本で知ったのですが、本当の供養の意味は、自分が善き行いを積むことで仏にお仕えすることにあるそうです。
晴耕雨読。
今からゆっくり地蔵菩本願経を読んでみたいと思います。
おん(宇宙の音)かかかび(笑い声)さんまえい(稀有な)そわか(成就)。