昨晩の天象。光る空を見て大騒ぎしている孫たちを微笑ましく思いました。かつてはそうだったと、 こんなことも楽しめた子供時分を懐かしみながら、轟く雷鳴が行き過ぎるのを待ったことでした。
今朝の「こころ旅」のお手紙は愛犬との散歩道を綴っておられました。
小学校五年生から五年間の不登校を支えたワンチャンのお話は聞いているだけで胸が締め付けられました。しかし、その子が昇天した頃からご本人は歩き出し、今は立派に働いておられるそうです。
それから、話は重なるもので、朝刊の「朝晴れエッセイ」も愛犬との別れのお話が載っていました。
この方は、自分が生きていくための相手になってくれていたことを、亡くしてあらためて気づいたと。
チベットでは、犬は来世には人間として生まれてくるといわれているらしいです。犬との関係はそれほど深いと考えている証です。あるいは、別れが辛過ぎてそう信じたいのでしょうか。
ところで、神社では狛犬が神様をお守りしています。
鎮座していて当たり前なので、これに注目する事はなかったのですが、大形徹先生の授業でお話を伺ってからは、一応分からないなりに頭に角があるかしらと触ってみたりしています。
この犬たちの歴史はオリエントを源流としているそうです。
ピラミッドを守るスフィンクス像は顔は人間ですが、体はライオン(獅子)です。
それが、ずっと東へ流れてきて、仏教と共に日本に入ってきたときには、向かって右に口を開けた阿像の獅子、左は口を閉じた吽像の狛犬という形になりました。
その頃の狛犬には角があったといいます。今は、撫でられたのか風雨に晒されたのか、角のある狛犬は見かけなくなりました。
獅子の話題をもう一つ。
石井桃子さんといえば、『ノンちゃん雲に乗る』をはじめとして誰もが読んだ童話作家です。
書かれた童話のなかに、『おししのくびはなぜあかい』という話があります。
これは、日本に古くから伝わる昔話を元にした創作です。同じように、彼女が書かれた童話の多くが昔話であるのは、幼い石井桃子さんをあぐらに抱いて、夜な夜なおじいさまが孫を集めて聞かせて下さった話に端を発しているとのことです。
この『おししのくびはなぜあかい』もそのとき登場した伝承昔話の一つだったのでしょう。
「むかし、天竺では獅子が、朝鮮では虎が、日本では狐を従えた狼が王様でした。
ある時、狼が狐に朝鮮と天竺に行って、国をとってくるよう命じます。
狐はまず、朝鮮へ行って虎と千里の道を走りっこします。虎が走り出すと、狐は虎の尻尾につかまって勝ったそうな。
次に、天竺へ行って、獅子に会います。
獅子は大声を自慢していました。そこで、狐は吠えてみろと頼むと、獅子は喜んで吠えました。
一回目は鍋釜がはぜ、二回目は小さな生き物たちが死んでしまいました。三回目に吠えたとき、獅子の首が落ちてしまったということです。
賢い狐は穴に隠れて難を逃れたのはいうまでもありません。
こうして狐は獅子の首を日本に持ち帰りました。
これが、今でも獅子舞で被る獅子頭になったとさ。」
想像上のお獅子ですから、利用され放題です。
これが節分で被られる鬼の面の発祥といわれたり、また、お能のお面も・・と、どこまでも話は無限に広がります。
しかし、こんなことを知ると、神社に行ったとき、拝殿前で睨みをきかせている狛犬たちに親しみを持てそうに思いませんか。角がある狛犬を見つけたらご一報を。