この年になって感慨を覚えることの一つに、小学校の同じ教室でスタートした四十人が、大人になって、全員違う道に進んでいることがあります。
別れ道を右に行くか左に行くかと選択を続けた結果です。
この春、高校受験が終わったばかりの孫が、次は「何になりたいか」と進路を考えるように云われています。
せからしいことです。
自分の大学受験当時を思い返しても、その時点では絶対にこれといった志しもなかったので、とりあえず浪人を避ける選択をしたお婆さんではアドバイスの仕様もありません。
それに、人生は計画通りに行かないわけで、もしも、この世ですべきことを持って生まれているなら、どなたの手だてか分かりませんが、ご縁に巡り合うものだとみています。
そして、そのご縁はどこに拓けるか当人もわからないところが妙です。
私には近年、学者さんの世界を垣間見せてもらえる機会が与えられました。ありがたいことです。
先日、久しぶりに府立大改め、公立大に行ったときのこと。
Iさんが先生とオンラインで勉強されていました。Iさんは、三人の子育てを終えてから、大学院に在籍して研究を続けておられます。
そのもようが凄いのです。
中国の古文献を一字一字読み解くのです。膨大な漢字の山をいつになったら上りきれるのか、せっかちの私なんか見てるだけで疲れてしまいました。つくづく、これは自分に向いてないことを悟った次第です。
しかし、ご本人は楽しくて仕方ないのだろうと察しはつきました。好きなのです。
知らないことを知ることが、至上の楽しみであることを発見してしまった人といえます。
中国哲学の勉強を横目で拝見できる機会を得ましたが、一般人が理解できることなどしれたものです。
先生に「美味しいところだけ摘み食いしてます」とお断りしたら、「それでいいのです」と応えていただいたことに力を得て、調子に乗っています。
人それぞれに、好きなこととか気になるところが必ずあるのは、個人が生きてきた道程と関連しているのかもしれません。
思考は一朝一夕で成ったものではなく、何も考えていないようで、その実、奥深いところで熟成されていると考えられるからです。
深く考えることなくひょいと掴んだものが好きになったり、熟考して選んだのに手放すことになったりというのは、恋愛と同じです。
なににつけても、好きなものに出会えること。それが一番です。
研究者がすべての語句を拾うようには、人生はまいりません。
長い人生のうちに光る残像をいくつ拾えますか。
夜空の星のうち、私が見える星は僅かです。その中から名前を知っている星は指折り数えるほどです。でも、その星を見上げることで夜空を楽しむことができます。
人生という長丁場は、ほんの少しの好きなことで彩られたとき、生きる喜びが湧いてくるというのは不思議なことです。
焦ることはない。ゆっくり出会いを待ってもいいのではないかと、孫の人生を応援しています。