庭で、二つ紋のテントウ虫を見つけました。彼らはアブラムシを捕食してくれるから、生物農薬といいます。
大きな食物連鎖から、小さな食物連鎖まで、この循環はどなたが仕組んだことなのかと、知るたびに世界の不思議に思いが広がります。
テントウ虫がくっついていたのは、わずかに残る山梔子の新芽です。
我が家の山梔子の木は、新芽が育ちません。それは、この木の葉しか食べないオオスカシバが住んでいるからです。丸裸になることを家人が許しているのは、彼らの美しさゆえです。
そして、もりもり食べられても挫けない山梔子の木の生命力は、与えることを知っているから与えられるものでありましょう。
桜の枝に雀が何十羽と姦しく遊びに来ていた日も過ぎて、庭は静かになりました。
こないだ、満開のつつじにアゲハチョウが三羽もたかっているのを見かけたのですが、写真には撮れませんでした。
どうして、紋白蝶ではなくて、アゲハチョウがつつじの蜜を吸いに来るのか。それは、彼らのストローが長いからだといいます。自然の棲み分けの素晴らしいことに驚かされます。
長いストローを持つか、マルハナバチのように花の中まで潜り込めるか。神様からもらった生きる術の巧みなこと。
いちいち感心してばかりです。
杜甫が春雨を詠っています。
「好雨時節を知り、はるに当たりて乃ち発生する」(雨が時節を心得て春になると降り出し万物を育む)
今日も雨と憂うつになるよりも、穀雨が与える恵みを思いましょう。
ところで、つつじは躑躅と書き、難読漢字です。
躑躅(てきちょく)は歩行の進まない状態、足踏みのこと。
美しく咲くつつじなのに、実はその葉は有毒で、羊がそれを食べたがためにふらふらしたことが語源だそうです。
これで、躑躅という漢字は忘れない!とは言い切れないところが、情けないことです。
私が、心に描くつつじは、聖天展望台に上がる道に咲く“コバノミツバツツジ”です。コバノミツバツツジには、どことなく儚げな優しさを感じるのです。
冬の間、あの道を上がるたびに、コバノミツバツツジが咲く日をずっと待ち通したのですから、是非とも見に行かなくてはと焦ります。
雨が続くとそれもかなわず、そんなことしているうちに、花の季節は過ぎてしまいます。
実際、今年も、春日神社のつつじ園の公開を見逃してしまった私です。明日こそ、晴れたら行くぞ!