こころあそびの記

日常に小さな感動を

合唱コンクール

 

 昼過ぎに帰宅してテレビを付けたら、今日から始まった高校野球の第2試合が放送されていました。

 あれあれ?先日、豊中アイボリーホテルの駐車場でバットを振っていた子じゃないかしら。

 そういえば、駐車場の入り口には「明豊高校ご一行様」と書いてあったっけ。試合は、大分県代表「明豊高校」と福井県代表「敦賀気比高校」が熱戦を繰り広げているところでした。

 人間の習性とは面白いもので、駐車場で見かけたというだけで、応援する気持ちが明豊高校に傾いてしまいます。

 やったぁ。9回裏の土壇場で、一点をもぎ取って明豊高校が勝ちました。

 驚いたのはその後です。

 校歌らしからぬ校歌に合わせて大きな口をあけて歌う生徒さん達の顔は一様に笑顔なんです。

 字幕に「明豊高校校歌

     作詞 南育代

     作曲 南こうせつ

と、出たので納得。大分出身の南こうせつさんが贈られた歌だったのですね。

 「  はるか果てしなく長いこの道

  君はひとりで歩き続ける

  暑い夏の日も冬の朝も

  明日の光が見えない夜も

  希望だけを支えに

  未来を創る旅

  夢をあきらめないで

  勇気 自分を信じ

  愛をその手で育てながら」

 

 若者に届けるメッセージとして、これほど分かりやすい言葉はありません。

 意味が掴めているから、選手たちが自信を持って笑顔で歌えたのです。

 

 

 今の子どもたちの心を捕まえる言葉は、明日への責任感みたいなものなのかもしれないと感じています。

 頑張ってといわれて萎れるのではなく、よっしゃと受けて立つ逞しさが今の子どもの持ち味です。

 それは、コンベアベルトに乗せられて流れ作業で育った私たち団塊世代とは、少しちがうようです。

 一人一人、しっかりしてるのです。

 

 

 実は、孫の学校の合唱コンクールが本日午前中にありました。

 最近、孫のお弁当に食べ残しが続くので、中身がお気に召さなかったのだろうかと気に病んで、思い切って訊ねてみたことがあります。

 「なんで?今日のはあかんかった?」

 「違うねん。昼も歌の練習で食べる時間がないねん」

 お弁当を食べる時間も惜しんで練習する子どもたち。ちょっといい話です。

 

 

 そんなある日の夕方、散歩途中に校舎から歌声が聞こえてきました。このことかと、しばらく立ち止まり、美しい合唱に聞き入ったことです。

 

 この校内コンクールは、5年ぶりの開催だそうです。

 そういえば、コロナ禍が始まった頃、大声を出してはいけないといわれ、合唱がいの一番に中止に追い込まれたことを思い出しました。

 あれから5年。孫が中学一年生から続いたコロナ禍でした。

 よく耐えたと誉めてあげたい若者たちです。

 選曲された歌は、一緒にいてくれた友達や親への感謝や、また明日への冒険など、今の子どもたちの成熟度が21世紀型であることが感じられる内容でした。

 今の若いもんは大したもんです。

 彼らによって、きっと力強い未来が拓かれる。そう信じられる合唱コンクールでした。

北風>太陽

 

 春が来た!と浮かれ気分で家を出たものですから、予想外の強い風とみぞれにあって、縮み上がりました。

 内心、恥ずかしいかなと思いながら巻いてきたマフラーになんとか救われて仕事場にこぎ着けたことは幸いでした。

 西高東低の冬型気圧配置。まだまだ侮れません。

 

 

 今朝は千里川沿いを歩きました。

 そうしたら、寒風吹き荒ぶ中、カルガモヒドリガモコガモ、シラサギ、四十雀ヒヨドリ、カラス、雀に会えたので、暴風もなんのその、楽しい朝の散歩ができたことでした。

 

 

 もう会えないと思っていたコガモ

 繁殖期に見られるオスの美しい緑色の目の回りのマスクが際立ってまいりました。うっとりと双眼鏡を覗いて悦に入っていたら、御一行ごと脇の狭い支流に逃げ込んでしまいました。

 オーイ。いつ北に帰るの?さみしくなります。

 

 

 朝の六甲山。

 

 

 夕方の六甲山。

 丁度、一番高いところに日が落ちるのが春分です。

 これからは、右手へ、つまり北側に移動していく季節になります。

 朝よし。夕方もまたよし。六甲山。

逞しい若者たち

 

 愛犬なのか、はたまた外からの侵入者なのか不明ですがクロッカスの土が荒らされて、今年は開花が遅れました。

 もう、春一番ではないのが残念ですが、やっと擡げてきた蕾に春雨が開花を促してくれています。

 変形してもいい。無事に花開くことを念じて待っています。

 

 

 雨の日曜日は、出かけるのも億劫になりますから、雨の音を聞きながら本を読んで過ごしました。

 ふと気づくと、相撲の時間です。

 今、大相撲春場所が旧、なんば体育館で開催されています。

 相撲が年寄りの楽しみといわれるゆえんは、老人は時間を持て余すからでしょう。

 まさか自分がその一人になるなんて思ってもいなかったのですが、見始めると贔屓の力士も出てきて面白いものです。

 注目力士が琴乃若関なのは、全国のファンと同様です。

 おじいさんの琴桜を知る人間は声援を送らずにおれないことはもちろんのこと、美形のお父様が「琴さま~」と黄色い声を浴びておられた、現、佐渡が嶽部屋の親方とくれば、日本中の熱い期待を一身に受けて当然のプリンスです。

 

 こないだ、あるタニマチさんが「誰のファン?」と訊ねてくださったので、とっさに「若元春」と応えました。

 そうしたら、「意外に彼のファン多いんだよね」ですって。ライバル多し。応援タオルもあるみたいなので、それ欲しさに大阪場所に行ってみたくなりましたが、高額のチケット代には手が出ませんでした。

 

 若元春は、他の力士のような柔らかさが感じられません。硬派男子のように見えるのは、勝っても負けても顔つきに変化が見られないからです。

 体つきも硬そうで、「ザ・オトコ」 を全身で表しているみたいな力士、なんていうと、~ハルスメントといわれちゃうかな?

 実は、彼も、お父様に続く世襲力士です。しかし、相撲を命がけで取るというのは、どこかの世襲議員さんと違うところです。

 昔は、お坊っちゃんと持ち上げられてお殿様は育ちましたが、今はそうはいかない時代になりました。

 

 

 お坊っちゃまの育て方には時代の変遷が反映されています。

 厳しい躾に高い教育を施して人づくりをし、谷底に突き落とす経験を積ませた昔の養育は、子に贈る親心でした。

 反対に、戦争経験者の親が自分と同じつらさを経験させたくない、と思って育て上げたのが団塊世代です。

 甘かった。その弊害が私たちの子世代にまで及んでいる現実を見るにつけ、子育ての難しさを思わざるを得ません。

 

 

 今日、大相撲大阪場所は中日となりました。

 新入幕力士の尊富士(たけるふじ)が全勝の八勝を上げて折り返す快挙です。

 青森県出身の24歳の若者は、学校から帰ったら、凍りついた廻しを1000回スクワットで解かしたといいます。

 自らに負荷をかける生き方を自ら選びとって邁進する姿を頼もしく思っています。

 次世代に期待して応援しています。

春模様

 

 朝の最低気温は4度。

 その後、太陽が大地をどんどん温めて、最高気温は18度まで上昇して、朝昼の気温差が大きい一日でした。

 コートもマフラーもはぎ取りたくなるほどの好天に、気持ちのよい屋外に連れ出された方も多かったのではないでしょうか。

 

 

 まだ、ちらほら咲きなのに、気の早いヒヨドリがやってきて、花の中に顔を突っ込んで蜜を吸っています。

 上空から見ていたら見えるのかも知れませんが、鳥は目だけで探しているのではないように思います。

 小さな小さな池でも見つけて、小さな魚を捕るという感覚は人間にはできないことです。人間こそが何でも出来ると胸を張っていますが、鳥だけに与えられた能力があります。

 神さまはそうやって自然界に王者を作らず、平等にすべてに愛を届けているのだと感心したりして。

 

 

 朝の散歩で、久しぶりにルイチャンと会えました。

 飼い主さんの奥さんが椅子に腰掛けて本を読んでおられる横で、お利口さんしているところでした。

 「すみません。写真撮ってもいいですか?」

 と、声かけしたら、直ぐに振り向いて席を立って下さいましたので、しばらくお話しました。

 「今日はご主人じゃないのですか?」

 「今、農協に野菜を届けに行ってます。その間、ここで待ってるところです」

 「ルイチャンはかわいいお顔してますよね」

 「この子の母親は白黒、父親は茶色なんです」

 「へぇ~ミックスしたらこうなったのですか?」

 「そう。でも、顔立ちは母親そっくり」

 「ルイチャンは男の子だから、お母さんそっくりなんて、人間みたい(笑)」

 そんなたわいもないお話につきあってくださる、心優しい飼い主さんでした。

 

 

 池の周りに咲く水仙の花。

 此処が、ナルシストに一番似合う場所かもしれません。

 

 

 丈の短い黄水仙もかわいいです。

 

 温かな日差しを受けて花々が咲き出しました。

 

 

 はこべが萌えだしました。

 

 

 路傍のスミレ。

 

 

 クロッカスもようやくのご登場。

 遅刻ですよ!

 

 

 雨で流れたはずのクレソン。

 ちゃんと、元の場所に息を吹き返しました。白い花が咲く5月が待ち遠しいことです。

 

 家に帰ってきたら、ユキヤナギが花数をうんと増やしていました。

 来週末は桜が開花しますが、それは花冷えの季節でもあります。

 不順の候、健康にお過ごしください。

幸せの青い鳥

 

 春になって山が笑うのは霞がかかって見えるからでしょうか。

 それとも、一斉に芽吹く木々のせい?

 さてさて、桜の開花がいよいよ来週に迫ってまいりました。

 春の幕開けが例年通りにやってくることに心踊ります。

 春。うれしい響きです。

 

 

 今日は、市軸稲荷神社の月次祭に行ってみることにしました。

 お天気は上々でしたから、散歩がてら阪大を抜けて歩いてましたら、美しく囀る鳥の声に気づきました。

 声の主は、道端の塀の上に止まってカメラを向けても鳴き続けています。

 姿は特徴的な青色だったので、すぐに「イソヒヨドリ」だと分かりました。

 彼らの歌声は素晴らしく美しいことで有名らしいです。確かに、音程は一本調子ではないし、声質は水笛みたいで、姿からは想像できません。

 後で調べたら、イソヒヨドリは「幸せの青い鳥」と呼ばれているそうです。

 彼らに会うということは、自分が幸せを手繰り寄せたことになるとも書いてありました。

 その幸せはあなたの手中にあることに、早く気づきなさいとも。

 

 

 イソヒヨドリを初めて見たのは、もう十年くらい前です。久しぶりに二回目の対面を果たして、気分はルンルンでした。

 そして、着いた市軸稲荷神社の「鳴動神事」。

 祭神の前で湯を沸かして、神主さんが祝詞を奏上すると、お釜が音をたてるのです。

 音は、一定になり続けるのではなく、大きく小さくうねります。 

 神事のあとで、神主さんが「今日はよく鳴りました」と仰いましたので、安堵しました。

 それは、鳴動音は参加者に穢れがあると弱くなったり、鳴らなくなったりすることがある、と聞かされていたからです。

 初参加の私なんかのために、そんなことになったらどうしようと、と心配していたのです。無事に終わってよかった。イソヒヨドリのおかげかな?

 目に見えないものに守られて生きていることを、神さま事は教えて下さいます。

 そして、早速、神意は自然の中に溢れていることを、帰り道で見つけました。

 

 

 一緒に行った友達が気づいたのです。私一人では見えなかったことでしょう。助けてくれる友達がいることに感謝です。

 

 

 春日神社横の原っぱで、つくしの群生を見つけたのです。

 春の到来を告げるものは数あれど、つくしは誰もが待ちわびる存在です。

 そんな子に会えたことも、今日の幸せ日記に書き留めておきましょう。

 ありがとうの一日でした。と。

卒業おめでとう

 

 今日は中学生の孫の卒業式です。

 母親は、お友達に誘われてつい3日ほど前に、急遽、和服を着ていくことにしたみたいです。

 平素、着つけていない者にとってはハードルが高いと思われますのに、さっさと、昔の同級生のお母様にお願いして了解を取ったあたり、つくづく恵まれた子だと感心してしまいます。

 遠い学校へ行った子より、地元育ちの子の方が卒業後の生活が楽しいということを、この子が教えてくれます。いつまでも、みんな仲良しで羨ましいたらありません。

 

 

 今朝の読売新聞に小学六年生の女の子の投稿が取り上げられています。

 「新しい漢字が増えないのはなぜだろう」と。

 時代が進化して新しい言葉が増えていくのに、なぜ漢字は増えないの?という疑問です。

 

 本家、中国の漢字は、後漢の『説文解字』に9353字、清代の『康煕字典』には4万7035字、現在の『漢語大辞典』には6万370字掲載されているそうです。

 頭がクラクラしそうな数ですから、さすがにすべてを使いこなすのは無理がありますので、出版物なども読みこなすとして、5000~6000字もあれば生活はできるといいます。

 さらに、英語は100万語以上あるそうですから、上には上があるものです。

 それに引き換え、日本の常用漢字は3000字くらいです。それを平仮名や片仮名を織り交ぜて上手く使いこなせているのは、それはそれですごい知恵だと思います。

 聞くところによると、中国では、新しい言葉を表す漢字が次々と生み出されていると言います。

 たとえば、オリンピックを一文字で表す字というふうに。

 そんなことをしてたら、数限りなく増加していく一方で、忘れられて使われない字も増えて、漢字のゴミ屋敷みたいになりそう。

 

 創作漢字はお遊びに留めるのがよろしいのではないでしょうか。そちらは、毎年、産経新聞でコンクールを開催しています。

 

 

 新しい字を増やすという案は、学習量をさらに増やすことになって子どもを苦しめることになりそう、というのは、老婆心でしかないことはよくよく分かっています。

 

 

 かく言うわけは、かつて、国鉄がJRに名称変更したとき、あれは三十代だったのに、反対意見を投稿した覚えがあるからです。ポンコツ頭は生まれつきで、現状を変えることが苦手なだけなんです。

 ですから、ん投稿のお嬢さんが仰るように新しい漢字が生まれる可能性はゼロではありません。新しい世の中には、新しい水夫が必要ですから。

 それにしても、現行の漢字だけでは表現できない世の中ってどんなものなのでしょう。こっそり見てみたいなぁ。

”縁“

 

 チュンチュンと朝から楽しそうな鳴き声が聞こえてきましたので、外に出てみたら、たくさんの雀たちが餌を啄んでいました。雨上がりの泥の中によほどおいしいものがあるのでしょう。

 仲良くお話しながら啄んでいる様子があんまり可愛くて、日本むかし話の世界に引き込まれたように感じた一時でした。

 

 

 昔、小学校低学年だった娘にお茶とお花を習わせていたことがありました。

 老いさらばえるだけの自分が習うより、未来に生きる人の方が役立つだろうと思ったからです。

 九十代の師匠と十歳にならない娘。

 話が噛み合うのかと心配したのは老婆心だったみたいです。

 ある日、縁側から二人でお庭の木を見ていたとき、娘が「先生、雀が巣を作ってますよ!」と言ったそうで、それ以来、先生は娘をとてもかわいがってくださいました。

 たぶん、雀ではなかったでしょうが、年の離れた二人が木を見上げて「ねっ」「ほんと」と言葉を交わしているところに温かい空気を感じたことです。

 

 その師匠がいつか言われた言葉があります。

 「此処にお稽古に来る人は、みんな縁があって集まっているのですよ」と。

 人生は「運がすべて」という人と同じくらい、人生は「縁で結ばれている」と云う人がいます。

 縁。この世で出会った人だけではなくて、過去世のどこかで袖擦り合ったというほどの記憶にない人がこの渡世を助けてくださっている。そんなことを信じるもよし、信じなくてもよしです。

 でも、近頃、世情がギスギスしてるのは、科学万能主義でそういうことを信じない人が増えたからといえなくもありません。

 

 

 それは説明できないもの。

 よほどの社交家でない限り、この世で出会う人の数などしれたものです。

 ある人は、娘の就職先を探していたところ、昔馴染みにたまたま会ったら、その人の口利きで一発で決まったとか。

 また、店先を訪ねてきた人に、よくよく話を聞いてみたら、共通の友人がいてびっくり。その友人は、かつて仕事のヒントをくれた人だった。とか。

 どうして、繋がっているのか。不思議に思うことはないですか。

 あるいは、この人といると落ち着くとか、この人と話してると楽しくて時間を忘れるわ。なんかも、きっといつか会ったことのある人なのだと思っています。

 

 今、なんのかんの言っても大きなトラブルなく過ごせているのは、ほんとうはとても有り難いことなのではないかと、ようやく信じられるようになりりました。

 お天道様さまが見てござる。

 

 

 昨夜、関西に春を告げる「お水取り」がクライマックスを迎えました。 

 夜空を焦がす大松明で邪気を焼き尽くし、疫病退散、五穀豊穣、天下太平を祈ります。

 それにしても、十日前に、福井県小浜の神宮寺の側を流れる遠敷川に流した香水を、昨夜になって、奈良の東大寺の若狭井から汲み上げるなんて。そして、その水を二月堂のご本尊である十一面観音さまにお供えするなどと誰が思いついたのでしょう。

 今年で1270年目。大仏が燃えた1568年も、大空襲の1945年も、休まずに続いてきました。

 この日がくる度に、燃え盛る松明より、鵜の瀬と奈良を結ぶ見えない道に思いを馳せてしまいます。

 昔の人が考えたにしては不思議すぎます。いや、昔の人だから考えられたのですね。