こころあそびの記

日常に小さな感動を

ててかむイワシ~♪

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 仕事帰りに寄ったスーパー。買うつもりのない魚売場を通り過ぎようとして、思わず踵を返してしまいました。
 「イワシ1パック100円」。しかも、「おつくりにできます」と書いているではありませんか。
 疲れた体でこの子達をさばけるだろうかと一瞬の逡巡の後、2パックもカゴに入れてしまいました。
 長けた庭の紫蘇と、すでにカゴに入れたネギと生姜でナメロウにした絵が見えるような気がして意気揚々と買って帰りました。
 好きなことをして心が躍ると、たとえ体が疲れていても苦にならないのですよね。
 頭を取って、お腹から親指を入れて中骨にそってそ~っと開いていきます。洗いながら皮を剥がしたら、ほら、出来上がり。
 お味噌と醤油を足して、おばあちゃんの“ナメロウ”はいかがですか。美味しいとみんなに褒められた喜びで疲れが吹き飛ぶ夕飯でした。

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 イワシは節分に出回るから、春のお魚かと思いましたら、秋の季語でした。

 八方に鰯が立って秋の道 / 坪内稔典

 空一面に広がる鰯雲に包まれると、異次元に迷い込んだような感覚になります。
 雲はきまぐれで直ぐに姿を変えるものですから、出会いは奇跡です。この秋も鰯雲とめぐり逢いたいと念じておきましょう。

 イワシの美しさを満喫出来るところがあります。それは水族館です。
 大水槽の前の人気者はジンベイザメマンボウばかりではありません。
 イワシの大群が、群からはみ出さずに銀鱗を輝かして右へ左へ泳ぐ姿は迫力があります。一匹一匹はあんなに小さいのに、集団のダイナミックな動きに見とれます。
 群れを作って大きく見せて、他の魚に襲われないようにしているという童話もありました。
 弱い魚と書いて鰯。自らの命を群れを作ることで守り、でも脱落した日には誰かのためにいのちを投げ出して奉仕する。
 鰯の存在が海のいのちを守っていることを知ると、鰯料理の美味しさが増します。

 昔は「手手かむイワシ~」と声あげながら、行商の魚屋さんが家の前まで天秤棒を担いで来てくれたものです。
 若いときには、鰯の小骨が気になったりしたものですが、この年になると、その素朴な味をたまらなく美味しく感じます。
 二年前まで通った府立大学。学食で「イワシの煮付け」を食べて帰ることを楽しみにしていました。子ども達に人気がなかったので、家で調理することはなかった献立でしたが、近ごろは、手作り梅干しを投入して、自己流「イワシの煮付け」を一人分作っています。食べれば、府立大学の楽しかった日々が蘇ります。

「みんなちがってみんないい」の意味

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 昨年、拙著の上梓が叶ったことで人生が完了したというのは大袈裟ですが、ボーッとする日が続くようになり、これではいけないと始めたのがブログです。
 千日回峰に倣って、1000日続けられますようにと願掛けしました。
 「分け入っても分け入っても青い山」といった種田山頭火の俳句もありますから、どんな修行も行き着くところがないことは分かっています。
 それでも、好きなことをしながら前に進みたいと願うのは欲張り煩悩のせいですね。

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 ものを書く人にもいろいろなタイプがあるようです。
 町なかで出会う些細な出来事であっても、無関心で通り過ぎずに顔を突っ込んで、ちょっと厚顔気味に関わって、それをネタに膨らますという書き方。それも、人生の彩りではないかと思います。
 書くということは、よく見る、よく聞く、よく読む。つまり、インプットの量と質がアウトプットの出来映えに直結するものです。
 特に、自分とは異なるタイプの方の話はためになります。
 例えば、たまに、元気もりもり。なんで病院通いされてるのか意味不明の方をお見かけします。彼女に元気の源をお伺いするとお友達とのバトミントン遊びとおっしゃっていました。
 話す、笑う、動く。健康にこれ以上の薬はありませんからただただ羨ましいことです。コロナの自粛生活においては一番大切にすべき三箇条です。
 しかし、私は人付き合いは下手だし、スポーツも苦手という人も当然おられます。その方々は不健康なのでしょうか。
 そんなことありませんよね。
 実は、私も独りでいる方が落ち着く人間です。
 独りが好きな人は、長らくその調子で生きてきたから、コロナ自粛生活もなんのその。全く困ることがありません。活動的な人の苦手が、孤独な人の得手とは、面白いものです。その反対もまた真なり。

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 そこで、思うのは「みんな違ってみんないい」という言葉です。
 みんな同じでないように神様が作られました。適材適所。自分しかできないことがきっとあると思えることほどの幸せはあるでしょうか。想像するだけで、生きる意味を問えそうです。自分だけが持っているユニークな形のピースで一人一人が穴埋めしていけば、いつの日か世界ジクゾーパズルが完成するのではないでしょうか。  
 金子みすずさんの感覚を、この年になって、ようやく少しだけ分かるようになってまいりました。言葉が分かるのではなく、周りを見渡してなるほどと思う分かり方です。それが嬉しいと密かに思って、一人ほくそ笑むのも楽しいものです。

私は元気~♪

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 降りそうで降らない。大気中に水分がたっぷり含まれているせいか、今日は山が近くに見えることを実感します。
 近頃、慌ただしくて、このまま自分が固まってしまうのではないかと感じる毎日でした。
 それを打破する三点セットは、散歩と孫とのお出かけとちょっとした散財です。たまのお休みは必要だとつくづく思った日曜日でした。
 
 特効薬は、朝早くの散歩から。
 いつもの道を少し外れてみるという小さな冒険心が自分の身体の目を覚ましてくれます。
 便利なGoogleMapがありますから、迷子になる心配はありません。「歩こう歩こう、私は元気~♪」と歌でも口ずさみながら歩けば、だんだん元気が甦ってきます。
 普段、ここで曲がるところをちょっとだけ勇気出して真っ直ぐ進んでみました。
 なんとそこは、タイムトリップの場所でありました。なにここ?江戸時代?身の回りのほん近くに歴史の証人がまだ遺っていることに感動します。
 そして、その屋敷群を抜けたところの門の中に、お大師様の後ろ姿が見えました。入ってみようか迷いながら辺りを見回すと、門にお寺の名前が書かれてありました。

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 入ってみると、それは親鸞上人でした。
 今日は親鸞様とご縁を結ぶ日だったのですね。ありがたいことです。倉田百三の「出家とその弟子」は父が読み古した蔵書です。青銅色の大きな行脚姿の親鸞像に手を合わして、父を忍びお寺を後にしました。
 短い散歩でしたが、非日常の空間を旅したことで、すっかり自分を取り戻したように思えました。やはり、心に異変を感じたら歩くことです。歩けば必ず、どなた様かが今、必要なところに連れて行ってくださいます。
 そう信じられた朝でした。

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 帰宅後、孫娘とお墓参りに行って、ついてきてくれたお駄賃に秋の洋服を買ってやりました。娘にもピンク色のブリブリバッグを買ったら、あ~ぁ、すっきりした!
 私は元気です。

ひこばえ

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 昨日の夕方、東から西に向かって真っ白な雲の帯が伸びていました。特になにがあったわけでもない静かな日であっても、空にこんな雲があるだけで儲けモンと思ってしまう変な癖があります。

 田中修先生のご本を見かけたので、また読んでしまいました。分かりやすくてためになります。
 発刊が今年の春なので、コロナについて巻頭で触れられていました。
 (1)動き回らない→自粛生活
 (2)話をしない→マスク生活
 (3)密をさける(過密を嫌います)→三密回避
(1)から(3)の植物の特性は、今私たちが強いられている状態と同じです。
 地球に生まれて五億年を生き抜いてきた植物たちの知恵は計り知れません。たくさんの経験から導かれたものであるなら、人間はその一つ一つをじっくり検証する価値がありそうです。
 植物は動かない選択をした結果、自給自足できる力の増強と、助けを依頼できるシステムを考え出しました。
 私たちは今、自粛生活の中で遮断されても生きていく方法を考えるように迫られています。そして、相互扶助というシステムの必要性をようやく構築し始めたところです。まさに後追いですね。
 植物はものもいわず、じっとしていても生きていける策を長い年月をかけて練ったものと思われます。地球に生まれてまだ20万年の人間は、まだまだ成長の途上にあるのかもしれません。

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 町なかに、保存林という立て札を立ててもらった大木をみかけることがあります。クスノキ、エノキなどが多いようです。推定年数500年。誰も見たことのない昔々を知っている樹木です。
 いつも行く神社にも保存林の立て札がありました。
 見上げたところそれらしき大木がないので、どうしたのかとよくよく見れば、バッサリ伐られていました。
 ところが、その太い幹から“ひこばえ”が芽を吹いて青々と育っているのです。
 “ひこばえ”は普通は根元のあたりから出てくるものですが、この大きな木は幹の上の方、7~8メートルのところで伐採されています。落雷でもあったのでしょうか?その切断部に近いところから逞しく芽を吹いているのです。
 そういうのを”胴吹き“というそうです。
 
 いのちをつないでいくための工夫は植物のほうが、何枚も上手です。
 人間はポキンと折れたらそれまでです。
 植物は折れても伐られても、根っ子のかけらからでもいのちをつなぎなす。草抜きをがんばってもがんばっても、気に入った場所なら芽を吹きます。嫌いな場所なら潔くさようならです。
 人間は最後は弱いことを認めて医療に頼らざるを得ない存在です。でもそれだけでは悲しすぎます。医療ひっ迫は政治の落ち度だと嘆くよりも、たくましく生きる植物に倣う生き方もあるはずです。
 『荘子 内篇 人間世』に「散木」という話が出てきます。小賢しく生きるな。ドーンと生きろという感じでしょうか。

『一日一生』を読んで

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 お寺の門前掲示板に張り出されている言葉を、いつの頃からか、興味を持って読むようになりました。
 本寺から送られてきたカラー印刷されたものでも、住職さんの手書きでも構いません。そのときの心を励ましてくれるものなら、このお寺の前を通ってよかったと思えます。
 神社は一括で神社本庁から配布されるようです。だから、どこの神社でも月替わりです。
 今月は『今日も生涯の一日なり 福沢諭吉』です。朝のお参りで、この言葉を目にするとき、今日も一日大切に生きようという気持ちを新たにできる言葉です。
 私なんか記憶力が悪いから、繰り返して学ばないとすぐ忘れてしまいます。その点、こうやって毎日新しい心にさせていただけるという朝のお参りはありがたいことです。

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 今日は美容院に行きました。
 待ち間に読める本はないかなと、通りすがりの本屋で『一日一生』(酒井雄哉著)を目にしました。自分の本箱にあるように思ったのですが、予約時刻も迫っていたので買ってしまいました。
 「どんなにひどい目にあっても時間が経てば、いろいろな経験の意味がわかるときが来る」と書いておられました。

 二学期が始まって、テレビでは登校したくない子供をどう守るかという話ばかりが放映されています。
 世の中には、登校したくてたまらない子供もいるのですよと、片手落ちの知ったか放送をにがにがしく聞いています。
 登校したい子供には、お友達や先生に会えることが楽しみで早く学校に行きたいなぁというタイプと、家に居たくないから早く出て行きたいというタイプがあるのです。両者をごちゃ混ぜにしてほしくないと思っています。
 かくいう私も厳しい母から逃れられるから、登校を選ぶ生徒でした。
 でも、酒井阿闍梨のお話ではありませんが、そのつらい経験が今の私を作ってくれたと、今頃になって母なりの親業を評価できるようになりました。
 多分、母は子育てが得意ではなかったのでしょう。そういう母とのこの世の出会いは深い縁があったのだと、心底分かるようになりました。

 そして、『一日一生』です。
 動物の心臓が一生に打つ回数は20億回といわれます。ネズミも象も同じ回数です。
 では、ネズミのほうが短い人生で、象のほうが長いのでしょうか。それが、どちらも同じだそうです。
 いわゆるネズミ時間と象時間。個体がもつ時間の流はその種に独特のものらしいです。

 それを知ったとき思いました。
 私たちも一人一人が自分だけの時間の流れの中に生きているのではないかと。
 せっかく生かされているのなら、自分らしい時間の使い方をしたいものだと読み終えたことです。

菊づくし

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 「九月九日は あかつきがたより 雨すこしふりて
  菊の露もこちたく おほひたる綿なども 
  いたくぬれ うつし香も もてはやされて 
  つとめて やみたれど なほくもりて 
  ややもせば ふりおちぬべく みえたるも 
  をかし」『枕草子

 今日は菊の節句です。
 今朝は、夜来のひどい雨の音で目を覚ました方も多かったようですが、清少納言が同じように、菊の節句が雨模様だったことを書いています。
 千年以上の時を隔てて、同じ経験をしていると想うことは、素敵ではありませんか。想像するだけで、自分の生きる力なってくれるように思っています。
 ただ、清少納言が認めた九月九日は降ったり止んだりだったようですが、2021年の9月9日はその後、雨が上がって、青空に白い雲の浮かぶ絶好の日和となりました。
 清少納言さんが甦られたら「をかし」くないと仰るでしょうか。

 花の四君子といわれる、梅、竹、蘭、菊のなかで菊は今や一年を通して花屋さんで見かけるので、そのありがたさが薄れつつあります。
 しかし、古今和歌集でようやく詠まれるようになった菊は、中国文化を日本に伝えるツールとして大いに貢献した花であったことは間違いありません。
 その頃は、貴族の屋敷の中で大切に育てられていたようです。特別な人達だけが愛でた花だったのです。
 大陸から持ち込まれた当時の菊は、一株に白い花が一輪、その姿は凛としていたといいます。
 露に移した香りで不老長寿を願い、漢詩に倣って酒に浮かべて憂いを払った菊の花。中国文化の真似事をした貴族の様子を伝える花でもあります。

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 菊花は現在も大切な生薬です。
 その性味は苦寒ですから、肺、肝の熱を冷ます効用があります。
 老年に近づくにつれて、潤す陰が少なくなるから、熱がこもりやすくなります。年と共にシワシワ、不眠、痒み、見えづらいなどの症状が多くなるのは陰虚の特徴です。
 菊は肝熱を冷ましてくれます。肝は目に開竅(かいきょう)するといわれますから、目が赤くなっているのは、肝熱がたまっている証拠でもあります。ストレスや過労はありませんか。
 目を使い過ぎた時には、菊茶で目を冷ましたり、杞菊地黄丸(こぎくじおうがん)で陰を養うのも一法かと思います。いずれにしても涼やかな目元が健康の証です。
 昔の人は肝と目が通じていることを知っていました。
 現代人もその知恵にあやかりましょう。
 そして、減っていくものを増やすことを考えるよりも、今あるものを健やかに保つ自分オリジナルな方法を工夫する毎日でありますように。

私の人形はよい人形~♪

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 秋といえば萩の花。ですが放っておいたら萩屋敷になりそうなくらい繁殖力を持つ花でもあります。
 息子が仙台に行ってたころに、仙台萩という名前に惹かれて一株植えたが最後、というのは萩に申し訳ないから取り下げますが、たくましいことは事実です。
 日ごとに育つ様子を横目でみていましたが、草刈りを決行することになりました。
 少々の罪悪感が胸に刺ったままではありますが、狭い庭はすっきりいたしました。

 片付けたらスッキリ気分になることが分かっていても、お尻の重い私です。
 「した時♪しない時♪」ばりの全か無かという一番整理下手な人間には、お掃除上手な人の手際よさに感心するばかりです。なんでも練習が必要とばかり、達人の技を見て本を読んで、いつかやってみようで終わっています。


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 ただし、捨てることは潔いほうだと思います。勢い余って要るものまで棄てたりして。
 中村メイコさんが『一番大切なものから捨てる』という本を書かれたと聞いたとき、捨てることに頓着ない私でも一つだけ棄てられそうにないものがあることを思い出しました。これを残していったら子供たちには重いだろうと思い悩んでいます。
 それは、おばあちゃんお手製の「市松人形」です。昔は、女子の孫ができると母方の祖母が日本人形を贈る風習があったようです。
 七十年間、おばあちゃんの代わりに私のそばで成長を見守り続けてくれました。おかげで難なく過ごせたことに感謝です。
 祖母の仕事を見てきたように言うのは気がひけますが、手先が器用な人でしたから、この人形を見た人は柄選びから縫製まで見事だと誉めてくれます。帯や帯締めなどの小物もすべて手縫いです。
 着物を縫い上げた後、近くの松屋町でお顔の気に入った人形を買ってきて着せました。そこなのです。私が解体できないのは、おばあちゃんの着付けということを、母から聞いているからです。その時の祖母の匂いが染みていると思うと触れないのです。
 そうでなければ、今流行りの額縁に着物だけを入れて飾ることも考えられるのですが、前身頃の見事な浮かし方などを見ると、それを畳んでしまうことがしのびないのです。
 どうしたものでしょう。
 子供たちは、「日本人形は怖い!」といって愛着はなさそうです。いつか、決心しなければならない私の仕事ですが、もうしばらく、もうしばらく・・・。