雨の日もいいものです。
雨音を聞きながら・・とは、よく詩歌にも使われる常套句でもありますから、人の心に不可欠なもの。遠くから響いてくる雨を蹴散らす車輪の音が静けさを伝えてくれています。
昨日は芯から疲れ果てて、いい加減なブログを書いてしまいました。
なぜ、あんなに精も根も尽きたのかと考えたところ、前日に、久しぶりに予習したからかもしれません。
いつもはしてないんかい!と言われるとお恥ずかしいことですが、してないのです。
前回の講座で当てられたものの、小中学生さながらに、手も足も出なかったので、これではいけないと反省した結果の予習でした。
老荘思想と一括りにされることの多い『荘子』ですが、一般には『老子』ほどメジャーではないように思われます。
それは、森三樹三郎先生のお言葉を借りると、「自然の秩序に対する絶対的な信頼」ということに、難解さを覚える人が多いからかもしれません。
あるいは、現代ますます複雑になりつつあるシステムの中では、あるがままの姿で生きることが難しいと放り出されている可能性もあります。
しかし、最近、田舎に移住する選択が散見されます。これは、どういうことを指しているのかと考える時、思い出される、ある田舎の人の言葉があります。
「勉強、勉強というけれど、それは人に使われるためにするもんやろ」
して当然と思っている勉強は、多くの人にとっては生きる糧を稼ぐだけのものでしかありません。
そして、家族を養い、子供を育て終わった人の言葉も記します。夕刊のビブリオエッセーから拾うと、
「一昨年医院を解体した。しばらく無気力な抜け殻のようになったが、自分にも「動」の日々があったことで自らを慰めた。お役に立てない老人だが(コロナ禍なウクライナ情勢)トンネルの先に光が射す日を見届けたい。「静」の日常が戻ってくることを切望している。」(88歳男性)。
すべてを通り抜けた後で、見えてくるのが『荘子』の世界観が持つ救いです。
その神髄に至っていないのは当たり前ですが、私の場合は、生育過程でだいぶとひん曲がった経験をしたものですから、「荘子」という人の考えていることが幼稚なレベルで見える気がしています。
「荘子」の育った時代は、紀元前四世紀。戦国の世の中に育ったといいます。
そんな社会で生きのびることができる精神は、よほど逞しくなければならないのは自明の理です。それを外に向けて逞しくか、内面を逞しくするかの二通りが考えられますが、「荘子」は精神的な自立を唱えたように思います。
怖い思いは見ざる、言わざる、聞かざる、で育てることが、あるがままというのではありません。たとえどんな経験をしようが、人間が本来もって生まれた純粋性は失ってほしくないと切に願っています。