今日は寒に入って九日目です。
仏にも寒九の水をたてまつる 森澄雄
寒さ厳しい今日の水を汲んで、寒餅を搗けばカビも生えない美味しいお餅になります。薬を飲むのも、煎じるのもこのお水がよろしいようです。
大鍋にいっぱい汲んで、豚のスペアリブを放り込んでコトコトとスープを作りました。
身体を温める生姜とネギはもちろんのこと、中国の友人に教えてもらった八角と花椒を入れました。温める作用のある桂枝も入れたかったのですが、スーパーでは見あたらず今回は諦めました。
部屋は暖かくなるし、食べて美味しい一挙両得のスープ作りでした。
夕方、散歩に出たら自由学園の坂道に不凍剤を撒いておられました。
「明日の朝の準備ですか?」
「今晩は大変なようですから」
本当に明朝は転ばないよう、気をつけましょう。
耳元で風が鳴ります。ゴーゴーと聞こえます。
風に煽られた鳥がバランスを崩しているところを、今日は何度か見ました。それでも、鳥は落ちてはきませんでした。偉いなあ。私は小鳥になれません。
『荘子』の内篇「斉物論、真宰」に人籟、地籟、天籟という言葉が出てきます。
人籟とは人が吹く笛の音、地籟とは風の音。ならば、天籟とはなんぞやと弟子が先生に尋ねる話です。
なぜ、そんな話を思い出したかというと、今日の風がまさしく地籟のようだったからです。今まで、静かだった山の木立がざわめき立って激しく揺れる様が、今日の風でした。今夜は、夜通し雨戸がガタガタ音することでしょう。
もとい。天籟とは、人籟を人籟として聞き、地籟を地籟として聞くことであると先生は応えます。
すべての音は自分が聞きたいように聞いていることは、日常経験するところです。つまり、誰かが鳴らしているわけではないという深い観察があります。
そこには、荘子ならではの、思想が込められています。天とはあるがままということであり分別を超えてこそ、自由な境地に遊ぶことができるということです。
そして、「真宰」とは、この世を動かすものとでも言える大きな大きなもの。人はそれが何かを知りたがります。しかし、その思いが昨日を悔い、明日を煩うことになります。
自分を忘れて自然と一つになって、今日を生ききることが大切と考えた荘子が好きです。