文化の日は父母世代までは、天長節と呼んだ明治天皇のお誕生日です。このところ、晴れの特異日という原則が崩れてきたので、それもご時世かと思っていましたが、今日は穏やかな快晴になりました。良かった。
近頃、思うことは、自分はなんと選り好みをして生きてきたことかということです。
よく、補聴器の性能について、周りの全ての音を拾うから疲れてしまう、と聞きます。
人間は、全ての音の中から取捨選択して、自分に必要な音だけを聴く能力を持っているそうです。あなたとお話している時は、あなたの声だけを拾うというように。
それと、同じように、勉強するときに、先生のお話から、自分が興味あることとか自分が知りたいところだけをチョイスしてきてしまったことに、今頃になって身にしみて痛い思いをしています。
もっと真面目に勉強してたら・・今更「タラレバ」ではありませんが、漢字も歴史も知らないことだらけで、不勉強だったのだと反省しても時すでに遅しです。
「私も!」と娘が賛同してくれたので、今朝の食卓はこの話題で盛り上がりました。この親にしてこの子ありです。
食卓に広げられた朝刊には「吉村が憎い自民党」という見出しが躍っています。
おばあさんは思います。
右肩上がりの時代を逞しく生きたおじいさんおばあさん達。そのおかげで、平和な時代を生きた父母。彼らにに育てられたお気楽な子どもたちが、今、人生の華を迎えようとしている世代です。
明治維新の激烈な経験をしたこともない人達がこの国を動かそうと意気込む気持ちはわかりますが、絶対的に足りない何かがあります。それが何かを、真剣に探す人が育ってほしいと切に願います。
ただ老婆心ながら、クリーンであることを第一条件にする世代には弱点があります。世の中にはいろんな考えがあるのですから、人間の感性を深く耕した人でないと、要請に応えることはできないところまで押さえてほしいものです。
つまり、まっさらの白紙がよいのかということです。見たこと全てが吸収されますから勉強するには最適です。しかし、純粋で全てを受け入れる素地が危険を孕む例もたくさん見てきました。
それには、分別がいりそうです。分別する力は聞く力です。『聞く力』は阿川佐和子さんの特許かと思っていましたら、近頃は選挙用語になってしまいました。
何を聞ける耳かが問題です。
深い精神性を持った上で聞き取ることができるのであれば、選り好みする耳でいいのかもしれません。
経験値の低い単純な耳だけはごめんです。