こころあそびの記

日常に小さな感動を

古びない『荘子』

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 クサギの花が色づいてきたので、写真を撮ろうと近づいたら、大きな蛾のような昆虫が花から花へ飛び移ってお食事中でした。
 先日、蜂の巣を撃退したばかりで、もしやスズメバチかと後ずさり。早速、Googleフォトで検索したらオオスカシバ(大透翅)という蛾の仲間でした。
 見たこともない昆虫が我が家の庭にいつのまにか住み着いていることを知って驚いています。
 子ども達は先に庭で見かけていたようで、「飼おうよ」なんて無謀なことを言い出す始末で困っています。
しかし、羽が透明で、太っちょな体は美しい色をしている上に、人懐こいとくればそんな気持ちも分からないではないのですが・・

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 今日は数ヶ月ぶりに『荘子』の勉強会に行ってまいりました。
 京都からいらした方があって、どうして?京都なら中国哲学は盛んではないのですか?とお尋ねしたら、『荘子』はどこもやってないとのお答えでした。
 としたら、なんと幸せな巡り合わせに自分が置かれていることか。なんでも、渦中に入ってしまえば、その有り難さが見えなくなるとは情けないことですが、本当だと改めて感謝した次第です。

 『荘子』の魅力はすべてを語り尽くさない、曖昧さかもしれません。簡単には掴ませないところがあります。
 分かる人には分かるし、分からない人には分からないということかもしれませんし、それでよいと本人も考えている伏があります。
 今日は、「斉物論(せいぶつろん)真宰(しんさい)」の講義でした。
 要は、この世を動かしているものがあっても、それは目に見えない。存在の断定はぼかされているけれど、多分、荘子自身は、そういうものがあるとつよく思っているのではないか。
 ある程度の人生の荒波を越えてくると、あれっ?これは自分の努力だったのか、それとも何かのお導きだったのだろうかと、なんとなしに見えないものを悟るようになってきます。
 神社で手を合わすとき、何か昔の血気盛んだったときの気持ちとは違う、全感謝の思いが深くなっているのは、誰かに助けてもらってここまで来たという実体験があるからでしょう。
 『荘子』はたとえ話で構成されていて、こうしなさい、ああしなさいはいっさいありません。まさに、自分の成長度で読み解く指南書です。
 
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 よく、努力のための努力は努力ではないといいます。無意識にしていることが努力になったなら、そのときそれを努力というと。
 しゃかりきに、がんばることは若人に与えられた特権です。老年期には何かに助けてもらったことを安らかに振り返る日々でありたいと願うのです。