七月のお山は、春先の青味をなくして、深い緑色を装うようになってきました。
九星の三碧木星と四緑木星の「碧」と「緑」の違いそのものです。
ここでも、古人の自然観察力が細やかに働いています。彼らの”感じる力“に負けないように生活したいものです。
ところで、『らんまん』のモデル、牧野富太郎博士が植物にのめり込んだように、漢字の世界にも、独学で足跡を残した方がおられます。白川静先生です。
どんなことでも、研究には、研究者の感性が大きくものをいいます。誰も知らない古い時代のことであれば尚更でしょう。異議を唱える方がおられても仕方ありません。
さて、先生は、福井県出身ということで、地元では漢字教育が熱心に行われています。
いつだったか、福井県教育委員会が『白川静の漢字の世界』という小学生向けの副読本を出版されると小耳にはさんだので、取り寄せたことがありました。
私だけがワクワクして、家人は誰一人見向きもしない本でした。いつものことです。
「川」とか「山」とか。とかく、漢字は何かを象って作られていると思いがちです。
しかし、森羅万象、すべてが画けるものではないことは、冷静に考えれば分かることです。それでも、初学に「山」「川」で学んだ者にとっては、象形文字は全体の数パーセントと聞くと、意外に感じたりします。
花梨の会のメンバーの、「“夢”は、どんな成り立ちなんですか?草冠と目玉と・・・」という質問は、何かを象形していると考えておられる証拠だと感じました。
「夢」は、会意文字と『字通』では説明されています。会意文字とは、二つ以上の意符の組み合わせからできた文字ということです。
この形から、左は「ベッド」で、右は「目の上に眉飾りをした巫女」、と分かるのは専門に勉強した人だけではないでしょうか。そんな呪霊が人の睡眠中に心を乱しにやってくる、というのが夢という漢字です。
因みにこれは、白川静先生の説です。
福井県は日本で最もお寺の多い所だといわれますから、白川先生の読み解きが、いつも神様と一緒なのも、分かるような気がします。
彼の最大の功績は「口」の斬新な読み解き方です。
この漢字が単に、口という器官を象ったものではなく、「神に捧げる祝詞を入れる器」としたのは、神様に囲まれて育たれたからこその発想ではなかったでしょうか。
「祝詞入れ」と考えることで、漢字の意味は深くなり、古い時代の人々の生活が見えるほど想像が膨らむことになりました。
つまり、漢字学の範疇を越えたのです。
学者さんとは、根気はもちろんのこと、自分の研究に対する信念が強くなくてはならないことが窺い知れます。
牧野富太郎博士の信念と同じだなぁと、ただただ感心しています。