福山駅に降り立って、沼隈支所行きのバス停を探したのですが、要領を得ません。
福山は人もまばらで、尋ねることもできず、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
その理由は、大阪ならシティバス一社が運営していますが、福山では数社のバスが一つのバス停を使用しているところにあります。
だから、ややこしい。
そこへ、私が男だったら間違いなくお嫁さんにしたくなるようなお嬢さんがやってきました。
「あの~、沼隈支所行きはここで待ってたらいいでしょうか?」
「ごめんなさい、私もよく知らないのです」
と会話しているうちにバスが入ってきました。私が訊いてみると言ってたのに、さっさと運転手さんのところに行って、
「行くみたいですよ~」と、教えてくれました。
その女っぷりにますます惚れた彼女は、「近大福山分校前」で、会釈して降りて行かれました。
ふっくらした頬とストレートの黒髪。
大学時代に憧れた福山出身の先輩にそっくりでした。ひょっとしたら・・と思わせる美しい方でした。
彼女が降りたあと、さらに二十分以上かかって、やっと沼隈支所に到着しました。
「枝廣邸」は、私の中学時代の恩師が、ご実家を福山市に寄贈されたお家と訊いていたところです。
丁度、菊花展用の鉢を移動されていた方に、その事情をお話ししたら、平成に入って改修されてしまったとのことでした。
手付かずで遺しているところがあるから行ってみて、と教えてもらったのは「清泉堂」というお茶室でした。
なんと、池の向こうの築山の上にあるので、池の上の飛び石を渡って暗い階段を上っていく場所にありました。
作者の遊び心が楽しい造りでした。
それもそのはず、昭和の小堀遠州と呼ばれ、あの足立美術館の造園も手がけた中根金作の作品だそうです。
機会があれば、ご笑覧あれ。
ここで、先生も遊ばれたのかしらと思えたことで、遠路来た甲斐もあったように思えたことでした。
さて、お暇しようと、玄関で靴を履いていると、「今からどちらへ?」とさっき菊のお世話をされていた方が声をかけてくださいました。
「鞆の浦へ」というと、側にいた人が、「近くまでなら、送るよ」と申し出て下さったのです。
他人様に御世話になることが、何より下手な私です。
「それは、申し訳ないですから」と一度は断ったものの、「福山まで戻って、また、というのは遠回りですよ」と云われたら、甘え心が芽生えてしまうのは、年をとったせいだなぁと、つくづく情けなくなります。
年をとれば甘え上手にならねばなりません。と聞こえた気がして、ご好意に甘えることにしました。
走り出してしばらくすると、「そうだ。私、あそこも連れて行ってあげたいなぁ」と、その方が言い出されました。「阿伏兎(あぶと)観音」。
観光地図には必ず載っている名所ですから知ってはいましたが、今回の計画では時間的に無理があると諦めたところでした。
心の中では「行ってみたい」と私。
「もしもの遠回りでないなら、そこで下ろしてもらえますか。そこからは、なんとでもしましから」とお願いして、計画外の“阿伏兎(あぶと)観音”まいりが叶うことになりました。
瀬戸内海に突き出した岩の上に観音様がおられます。海に向かって扉が開かれたお堂の回廊は少し傾いていました。
先に上がっておられた男性が、「気をつけた方がいいですよ」とアドバイス下さったくらいです。強い風にあおられたら、バランスを崩しそうな危ういお参りでした。
それにしても、あんな過酷な場所に立つお堂の維持は、どうされているのでしょう。お寺のご住職様ご夫妻がとっても優しい方でしたから、護られていくはずと、祈らずにおれませんでした。
お参りを済ませて、お堂を見渡せる場所に上りましたら、お堂をスケッチしている方がありました。
「手元だけ写真撮らせてもらってもいいですか?」
「いいですよ」
ということで、写した写真の彼は、新進の日本画家さんでした。
お名前は「加来万周さん」
側に、画廊の方が付き添って来られていることで、彼への期待の高さが推し量れます。
東京をはじめ各地で個展を開催されているそうですが、大阪には来春、心斎橋大丸に来るとのことです。
そんなことから、阿伏兎(あぶと)観音は、この一つの出会いで心に深く刻まれることになりました。
人の記憶とは不思議なものです。
なぜ、旅行者はお土産を買うのか。それは、記憶を留めるためかもしれません。
加来先生の「あぶと観音」の絵が完成の暁に、縁あって拝見できる日が来たら、望外の喜びとなることでしょう。
福山で電車を降りてから、まだ4時間しか経ってないなんて。さて、旅はいよいよ鞆の浦へと続きます。