出発を見送ってくれたお月さまと木星が仲良く並んで、私の帰宅を出迎えてくれました。
旅を見守ってくれてありがとう。
旅の続き。
そうそう、沼隈で生まれて初めてのヒッチハイクもどきを決断できたことは、自分の内側が変化しつつあることを感じさせるものでした。
比べてしまうのは、学生時代、友人と一緒に旅に出たときのことです。出先でその友人の知人に出くわし、「一緒にうちに泊まれば」と誘われたことがありました。
私が頑なに拒んだために、友人と別々に宿泊するという事態になったのは、今思えば、なんとかわいげがなかった事かと穴があったら隠れたいほどです。
それほど意固地な自分でした。
プライドが高く、世間は狭く、怖かった母の呪縛下にあったためという理由づけは、もうなしにしなければならない年齢になりました。
やっと、ひと様のお世話になることを、受け入れることができるようになった。
これは、自分にとって大きな前進です。
意固地な自分が、周りの愛に素直になることで融け始めています。少しずつ、纏っていた防御やガードをとっ払い始めているのです。
同時に、それは母が遠いところまで旅立った証でもありますから、一抹のさびしさは消えません。しかし、私の心眼に映る母はもとのあたたかい姿に戻っているように見えます。
本当は温かさを持っていたのに、十分に発揮できなかった出会いを許してください。
閑話休題。
阿伏兎観音の住職さんのご好意で、タクシーを手配してもらうことになり、無事に鞆の浦に到着。
早速、有名な常夜灯の前で市のガイドツアーの一団が、説明を受けておられるのを見つけて、合流させていただくことにしました。
鞆の浦は瀬戸内海の中ほどにあたるため、潮目の変わる場所といわれます。
だから、万葉の昔から、ここで潮待ちをした歌が残っています。
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常
世にあれど見し人ぞなき
ガイドさんのお話で興味深かったのは、昔はこのあたりには小さな島々が浮かんでいたそうです。そこを干拓して今の町(鞆)になったといいます。
これは、倉敷の成り立ちも同じでした。
あのあたりに、島がつく地名が多いのは、小島がたくさんあった名残です。
阿知潟と呼ばれたのは、4世紀に漢の霊帝の曾孫の阿知王がやって来たことから名付けられ、その後、大陸の技術などが入ってきて干拓が進んで、倉敷の町ができました。
どうでもいい知識かもしれませんが、先年の吉備の大洪水の意味が分かるような気がして、こういう雑学も耳をそばだてて聞いてしまいます。
福山駅南口にこんな像がそそり立っていました。たまたま周りに誰もおられなかったので見に行ってみました。
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)作の「五浦釣人像(いづらちょうじんぞう)」でした。
私が下の方に書いてある説明を読んでいたら、またまた一人のしゃきっとした男性の登場です。
このあたりの方のようで「田中先生は隣の井原市出身の彫刻家です。あの竹竿に見えるところもブロンズです。網の表現が素晴らしいでしょ」と、教えてくださいました。
平櫛さんのことを、ものの本では”でんちゅう“と書いてありますのに、彼は、”たなか先生“とおっしゃっていました。
同郷人の誇りは“たなか先生”の中にあるのですね。
本日の最後は、その平櫛田中の残した言語録を。
六十七十は はなたれこぞう
おとこざかりは百から百から
わしもこれからこれから
今日もお仕事 おまんまうまいよ
びんぼうごくらく ながいきするよ
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
ちなみに田中先生は107歳没。
有言実行の人生でした。
おまけ
新幹線から見えるお城として有名な 福山城。