こころあそびの記

日常に小さな感動を

星野道夫さん

 

 思い立って美容院に行くことにしました。

 定期的に行かなくてもよい髪形はないものかと、いつも思案にくれる困ったくせっ毛です。

 

 

 カラーの準備をしてくれる若い美容師さんと四方山話をしました。

 カットがうまいと云われる男性美容師さんは苦手やわと私がこぼしたとき、彼女が「でも、そういう人は(その人にあう髪形が)見えるそうですよ」と言ったことに驚きました。

 『荘子』の養生篇にある「庖丁解牛」の話と重なったからです。

 私たちが料理に使う刃物を庖丁と呼ぶのは、この話に基づいています。

 「庖」は料理人、「丁」は名前、つまり料理人の丁さんという意味です。

 丁さんも、初めて牛を解体した頃は、牛ばかりが目に入ったそうです。それが三年ほど後には目に入らなくなり、今では心で牛を捉えて、目で見ることはなくなった。と文恵君に応えています。

 熟練するということは、美容師にしても、料理人にしても同じであることに感心したわけです。

 どちらも、自分を虚しくするところまで修業して初めてあるがままの道が見えてくるというのでしょう。

 

 

 カラーリングの待ち時間のために、美容師さんが雑誌を持ってきてくれました。

 表紙に「星野道夫」と見えたので、うれしくてそのページを開きました。

 星野道夫さんは、私と同い年の冒険家です。享年43歳は早すぎます。それから、三十年も生き長らえている自分なのに、彼の目指したものに到達できていないことを情けなく思ったことです。

 

 素敵な言葉を写真に収められたことが、今日の最高の収穫です。

 

 「ぼくは“人間が究極的に知りたいこ   

と”を考えた

 一万光年の星のきらめき

 問いかけてくる宇宙の深さ

 人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界

 どんな未来へ向かい、何の目的を

 背負わされているのかという人間の存在の意味

 その一つ一つが

 どこかでつながっているような気がした

 けれども人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら

 私たちは生きてゆく力を得るのだろうか

 それとも失ってゆくのだろうか

 そのことを知ろうとする想いが

 人間を支えながら

 それを知り得ないことで

 私たちは生かされているのではないだろうか」

 

 

 彼が好きで、何冊も著書を読んできましたが、あらためて、北極圏で写真を撮りながら、彼が考えていたことに深い共感を覚えます。

 彼は、生きてる意味なんて考える必要はないことに気づくまで生ききったのです。

 美容師はお客に似合う髪形を、料理人は美味しい料理を、目指して努力するしかありません。

 そうやって、毎日を丁寧に生きて生ききることで、それが天の道に叶うことになったとき、自然と生かされているという感謝に到達できる日が来ると信じて、いのちを全うしたいものです。