こころあそびの記

日常に小さな感動を

笑顔満開

 

 朝日に輝く桜が見られるのが、庭に桜があることの特権です。

 青味を帯びた朝桜、真っ白な昼の桜、淡い夕桜。

 先日会ったお年寄りが庭の桜を指して、「こんなに大きくなるとは思ってませんでした。桜、切るバカをくり返しているんです。よかったら、咲いたら切って差し上げますよ」と、桜を植えたばっかりに味わう心の痛みをこぼしておられました。

 それほど、桜は大木です。

 

 

 でも、庭にあるから木の下を占領できます。

 西行をはじめ、詩人や小説家が不思議な感覚が花の下には満ちていると感じています。夢幻というか、神秘というか。彼らのようにうまい表現はできませんが、確かに桜の花の下には、いのちが蒸れているのにへんな静寂さがあるのです。

 美しすぎる桜に魅せられ、魂を奪われたから、西行はあの歌を詠まずにおれなかった。その日のために準備をした西行の桜愛をなんと云えばいいのでしょう。

 

 願わくば花のもとにて春死なむ

 そのきさらぎの望月のころ

 

 ちなみに今日は旧暦の二月二十九日です。残念ながら、満月は先月の二十五日でした。今年の桜が遅かったので仕方ありません。

 二、三日前まで、あんなに心惑わせた桜なのに、満開になった途端にあの心配もどこへやら。

 

 

 自動車の車窓から見える桜も、遊歩道に咲く桜も、必ず、それを見上げている笑顔があることが、うれしいことです。

 なにが偉いって、人々を笑顔にできるほど素敵なことはありません。

 こればっかりは、生まれついた顔の造作にかかわる部分もありますので強くはいえませんが、やっぱり笑顔さんがいいですね。

 

 

 和顔施

 何一つ施しができなくても、笑顔で相手を癒やすことができたら、それに勝るものはないと断言できます。

 年をとって、どんどんしわくちゃになって、シミだらけになって。それでも、はっとするほど笑顔の美しい方がおられます。

 そんな方を見かけると、年寄りだからこそ気をつけないといけないと自戒の念が湧きます。

 明日のお財布の心配したり、来し方の出来事を反芻したり。難しい顔で歩いているお年寄りとすれ違うことが多くなりました。

 笑顔美人に生まれついてなくても、せめて、人に嫌な感じを与えてしまう年寄りにはなりたくないものです。

 昔の人は云いました。

 “人の振り見てわが振り直せ“

 しかめっ面のお顔が前からやってきたら、それは、鏡と思うことにいたしましょう。