庭の桜がほんの一部咲きました。今日、明日の暖かさで開花がすすんで、8日の入学式には満開になることでしょう。
桜花のいのちは短いといわれますが、どうして、なかなか、すべての人々の記憶に残るまでは散ったりしないところに花の意思を感じます。
一株の桜草。
蝋細工のような椿。
エンドウ豆。
そらまめ。
琵琶の実が膨らみ始めています。
存在感のあるぼってりした紫木蓮が咲いています。
そばで農作業されていた男性に、
「もくれんが咲き始めましたね」と話しかけたら、
「自然はよう分かっとるわ」と応えてくださいました。
男性にお声かけする少し前、高い枝に止まっているモズを発見していたので、
「この林にはモズが住みついているのですか?さっき、ひさしぶりに見かけましたが」
「おるよ。何匹もおるよ」
「そうなんですか!よく見られるのはいつですか?」
「そうやな~秋ぐちかな」
「次の秋には気をつけてみます。
さっき、ウグイスの谷渡りの鳴き声も聞けたんですよ」
「モズも鳴きよるよ。子孫を残すために必死やからね」
いのちがけで子育てをする小鳥たち。
「人間は・・」
「なにか援助してやらんと、子どもを持とうと思わんやろ」
「ですよね。育て終わったころには、親は真っ裸ですもんね」
そう言ってはみたけれど、心の中では思うところがありました。子どもが減っていくのは、金銭面だけが理由ではないように思っています。
いわゆるウーマンリブが一世を風靡したことがありました。男女同権ときて、夫婦共働きがトレンドになって。
女性が専業で家に居ることよりも、外に出ることを推奨し続けたことが、女性の生き方に大きな影響を与えてしまったのではないでしょうか。その煽りをくって男性の質まで変質せざるをえないことは、男の子を育てているお母様の悩みにもなっています。
そんなことでいいんだろうか。
何のために男女差があるのだろう。本来の性差を活かせる普通の生き方に戻すことは、年寄りが考えそうな逆行といわれるのだろうか。
小鳥の縄張り争いを聞きながら思ったことでした。
この高台は、いのちの洗濯ができる高齢者のテーマパークです。
今日の最後はこの子が締めくくってくれました。チャウチャウ!