こころあそびの記

日常に小さな感動を

日は昇り日は沈むという不易

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 和歌山市で水道橋が崩落して、今日で三日目です。
 快晴続きで助かるとはいえ、お水のない生活の不便さはいかばかりかと、一刻も早く復旧されることを願っています。
 そんな困難な状況下でありながら、人々の笑顔が報道されていました。
 困難な時ほど、お互い様という気持ちが芽生えます。   
 助け合えるお隣さん同士。それだけじゃありません。SNSを通しても素早く助け合いの輪が広がっているのです。心配を直ぐに行動に移せる人に感謝です。

「秋深き隣はなにをする人ぞ」芭蕉

 近頃は、隣で何が起ころうが関係ないという世相です。若い人に訊いてみましたら、気の合わない隣人よりも、SNSの仲間と繋がっているからさびしくないと言います。
 遠くの親戚より近くの他人。昔はそんな言葉もあったのですが・・
 
 子供が小さかった頃、私のように人付き合いが下手な人間にも声をかけてくれる隣人がありました。
 突然の子供の入院のとき、「預かってあげるよ」と家に残さざるを得ない子ども達の面倒をみてもらったこともありました。太っ腹の隣人でした。
 また、子育てに悩む私に「この子はいい子やね」と誉めて下されば、それだけで希望が持てたものです。
 隣人とのご縁は、どなたかの深い慮りがあるような気がしてきます。

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 ところで、先の芭蕉の有名な俳句ですが、この作の前が、

 「この道や行く人なしに秋の暮」

 後の句が辞世の句としてこれまた有名な、

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 芭蕉はこの句を残して10月12日に没しました。
 
 「不易流行」という理念に何を見ていたのでしょうか。
 時代の変化に合わせて姿を変えていっているようで、その本質はなにも変わらないことを信じないと、時代や流行に惑わされて迷子になります。
 芭蕉も確かなものの見方を目指したのではないでしょうか。
 コロナコロナと大騒ぎするのではなく、それでも生きている自分を見失わないことだと思っています。

美しき薄明

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 今朝、空を見上げたら、ド近眼の目に月影が丸く映りました。ひょっとすると思い込みかもしれないと携帯で写真を撮ってみたら、やはり丸く影が見えました。今日は月齢27ですから、眉月のはずですが、太陽がすぐそこに上ってきているので、太陽の光が月を取り巻いたのでしょう。
 薄明だから見える現象です。
 今回見たのは星明かりが一つずつ消えて、朝が始まる薄明。反対に紺色の空に一番星が見え始める時にも薄明という時間帯があります。
 選手交代劇は、起床や夕餉の準備で慌ただしい時間に
過ぎていきます。惜しいことです。
 夕方の薄明で一番星を見つけられたら、幸せ気分。反対に朝の薄明で一つずつ星が消えていくのは、朝なのに消失感が残ります。
 天空の一番ドラマチックな瞬間は薄明にあるようにも思えます。

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 さて、地上では十月に入りましたのに昼間は三十度越えの日が続いています。
 そうはいっても、朝夕は秋の気配が。
 
 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 
 風の音にぞおどろかれぬる」

 秋になれば必ずし引用される藤原敏行作の和歌です。秋は「風」で知らされるものと言っています。爽やかさを運んでくる風です。

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 近くのお寺に「煩悩を彼方に運ぶ秋の風」と掲示されていました。
 これは、春の風ではないのですね。春は希望を運んでくる風です。
 秋の風は消し去ってくれる風です。夏に抱え込んだ重い荷物を、秋風が持って行ってくれます。
 
 天空に薄明という時間があるように、今、地上でも夏と秋が交替中です。まさに地上の薄明期。
 陰陽がせめぎ合っていながら、決してバックはありません。季節は必ず前に進みます。
 季節感がなくなったといわれます。なるほど昭和時代とは変質しているかもしれませんが、それでも、夏は暑いし冬は寒い。
 四季がなくなったと嘆いていては鈍感になるばかりです。
 自然の変化に鋭敏だった先人の感じ方を倣えば、秋を十分に堪能できる気がしています。

「風のガーデン」を観たくなる日

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 遥かに見える大阪のビル群。
 天下人になった人にとっては、いくら立派な天守閣から見下ろしたとしても、腹に一物を抱えて見る景色であればどこか虚ろであったことでしょう。
 それに比べて、この時代の老いた平民であればこその清々しさをありがたく思いました。

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 朝から、モリモリお食事中の鶏たちや、山羊さんにも会えました。
 日の出とともに出発しないと、この子たちのこの元気な姿を見ることはできません。その証拠にそばに設えた「産みたてたまご/100円/一袋」の卵は終了していました。
 いっぱい食べて、明日もいい卵を産んで下さいね。

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 崖にひっそりと淡い紫色の釣り鐘草が咲いていました。
 自己主張の全くないところが人々に愛される山野草の理由だといいます。お花屋さんでは見かけない、繊細で可憐な姿です。
 秋の七草の一つであるキキョウの仲間です。
 仲間の一つに“カンパニュラ”があります。ラテン語で小さな鐘という意味だそうです。
 カンパニュールというリンゴ果樹園を守る精霊がギリシャ神話に登場します。リンゴを盗みにきた兵士に殺されてしまったことを知った花の女神フローラに釣り鐘形の花の姿に変えられたとのことです。
 そうなんです。
 あの「風のガーデン」に出てくる花だと気づきました。
 神木隆之介君がおじいちゃんの緒形拳さんに教えてもらう花言葉をスイスイ覚えていくお話でした。
 カンパニュラは「孫娘を嫁に出す日」という、おじいちゃんの希望が乗せられた創作花言葉でした。
 巷でいわれるカンパニュラの花言葉は、”感謝“、”誠実な愛“、”真剣な恋“だそう。
 素敵な花と出会いました。
 もう、平原綾香さんのゆったりとした声のテーマソングが聞こえてきました。一つの小さな花から、倉本聰さんの描いたドラマが蘇りました。
 今日は超名作「風のガーデン」を見て過ごします。

光と風と水と

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 朝日の当たる水紋によって、出水鉢に沈められているビー玉の色が揺らめいていました。
 その光景を美しいと足を止める余裕が、今日も健やかである証だと思っています。

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 喜怒哀楽。
 爆発するような喜びごとは、この年には起こりません。静かにじんわり幸せに思えることが喜びのように感じます。
 怒。これは若いときの特権かもしれません。なんといっても、エネルギーの要ることですから。
 哀しいことは、いっぱいありました。それさえも今はいい思い出です。
 来し方の楽しかったことよりも、今日の楽しい気持ちがうれしく思えます。
 人並みにいろいろなを経験してきました。なのに、その時の感情を細かく思い出せないのです。人間は忘れるから生きていける。その通りだと思います。あんなこともあったなぁとほんわか振り返る時、幸せを感じます。

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 さて、ラジオでリンゴさんと百子さんが「なるほど」の使い方について話されていました。
 人の話の相づちに「なるほど」を使いすぎるのもどうなのかということでした。確かに、どこか軽い感じになるように思います。本当にそう思ってる?と。
 心理学では「共感すること」が一番大切であると教えますから、「なるほど」というのも一つのテクニックなのかもしれません。
 座学で教える共感の表現は、相手の言葉を繰り返すのです。「しんどいのです」といわれたら「しんどいのね」というように。
 心底から共感したら、そうは言わないのではと、いつも、西洋式のオウム返しに疑問を持っていました。いかにも、マニュアルっぽいですよね。
 人生で独りの人間に与えられる経験はそう多くありません。すべての経験を、同じ立場で理解する事は難しいように思われます。せめて聞き上手でいたいものです。
 写真にある「苦しみや悲しみも味わう心が思いやりのある人柄をつくる」という言葉。
 苦しみにも、悲しみにも捉われない健やかな心が懐を深くすると言い換えられる気がします。

記憶の中のエンゼルラダー

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 昨日の続きですが、散歩の道すがら黄白色のブーツを履いたサギを見かけました。いつもは水に浸かってるから今まで知らなかっただけかなと、見るともなく通り過ぎようとした時、一緒にいた友達も発見したみたいです。
 「あれっ。白い靴はいてる!」
 調べてみたら、コサギは白い足であることか分かりました。
 友人と同時に発見したコサギの記憶は引き出しにしっかりしまい込まれました。
 いつか、コサギを見かけたら、友人と歩いた川縁を一緒に思い出すことでしょう。
 これが、テレビの旅行番組だったらどうでしょう。
 一瞬、行ってみたいな、美味しそう、と感じても長く記憶に留まることはありません。そうです。匂いも音も寒さ暑さもない、ましてや共有してくれる人間もいない映像は、脳内を素通りしていくのです。
 だからといって、知らない土地の映像が無意味というわけではありません。決して行けない場所へ仮想旅行ができることはありがたいと思っています。悪しからず。

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 新聞の投稿欄に、「母と同じような咳をするたびに母を思い出す」と書いておられる方がありました。
 それを読んで、私が母を思い出すのはどんなときかと考え込んでしまいました。厳しい母でしたから、思い出すのは叱られたことばかりです。
 ただ一つ、今でも車の運転中に眼前に広がる神秘的な光芒を見ると思い出すことがあります。
 それは、母を山中温泉に連れて行った帰り道でした。
 帰路を急ぐ夕刻のこと。進行方向全体に降り注ぐ天使の梯子が美しくて、まるで夢の中を走っているようでした。
 思わず「きれいやね、天使の梯子っていうらしいよ」と声をかけたら、「見たことない」というのです。本当に?天使が上り下りするという天空のパノラマを見たことがないの?
 難波の真ん中で育ち、戦争中に青春を過ごした母は、空を見上げることもなく結婚をして、それからというものは、心休まることのない日々を過ごしたことに今更のように胸が痛みました。
 空を見て心を解く余裕もなく、気を紛らわす方法さえ知らずに逝ってしまいました。
 そんな現実に翻弄された母の子供だから、私はしんどいことから逃げて暢気に天を見上げては心を解放する癖がついたのかもしれません。
 エンゼルラダー。母を手繰り寄せる梯子です。

いくつになっても遠足気分

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 あまりにも気持ちのよい秋晴れだったので、一人じゃもったいないと思って、お友達を誘い出してしまいました。
 コロナ禍にと眉を顰められるかもしれませんが、二人で歩けば、二つの目で新発見ができたりして楽しい遠足になりました。

 「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 
  女郎花 また 藤袴 朝顔の花」(山上憶良

 散歩道には秋が満載でした。
 
 知らなかった花や実もGoogle辞典で即座に検索できることは、時代の恩恵です。

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 歩き始めてすぐに見つけた白い花はナワシログミ。秋に白い花が咲いて、春の苗代を作る頃には実が赤く熟すところからの命名といわれると、お互いに寒い冬を頑張って越そうねと誓い合いたくなりました。

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 アラカシのかわいいどんぐりはまだ青くて枝にしっかりくっついています。春に、垂れ下がっていた花はこの子のお母さんだったんですね。半年間、お疲れ様でした。

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 本日、同行してくださった彼女はお花をこよなく愛するお花博士です。
 今日は、二つ教えてもらいました。
 一つは、蓼です。
 水の流れの際に群生しているとは驚きです。
 「蓼虫不知辛」辛い蓼の中で生きている虫は、それに慣れて蓼が辛いことを知らない。というところから「蓼食う虫も好き好き」という諺になったようです。
 元の中国語の意味は、よく考えると深いものがあります。
 また、この葉は藍の染料です。
 初めに浸したときは黒かったり、茶色かったりするのに、回数を重ねる度にだんだん澄んだ青色が出現するマジックは、「青は藍より出て藍より青し」という言葉になりました。
 古くから、身の回りに存在したことを、実感できたことは収穫でした。そして、こんなことからだって、時空を越える空想の旅は可能であると感じた次第です。

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 もう一つ、栴檀のまだ青い実が鈴なりになっているところを教えてもらいました。
 これも、春にイヤというほど写真に収めた花です。秋になって、あのふわっとした花がこんなかわいらしい実になるのですね。

 「栴檀は双葉より芳し」

 どなたかも書いておられましたが、そうとも限らないと思います。みんながそれぞれに探した道で実を成らす社会であればよいと望みます。
 
 あーぁ、楽しかった。一人もいいけど二人もね。という朝の散歩でした。

「杏☆漢方セミナー」を始めた理由

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 「杏☆漢方セミナー」を始めようと思ったのは、漢方薬を啓蒙したかったからではありません。
 東洋哲学に触れて、健康の元は何かということが、うっすら分かったからです。
 できることなら、一人でもいい。健康に過ごす方法を知ってほしいと思いました。
 先日も、私より高齢者から相談を受けました。 
 「こんなマットレス、どう思いますか?」
 すべては自分でチョイスする事ですからお応えは避けました。ご承知のように多種多様な健康法と情報が巷に溢れています。迷子になる危険性は誰にでも襲いかかります。こんなとき、何を基準にすればよいのでしょう。
 それらとは一線を画するとっておきの健康法で、たとえ病気になっても健康でいられる。そんな方法をお知らせしたくてセミナーを立ち上げたのです。
 私は東洋医学を入り口として、そのことが分かったのですが、山の頂上を目指す道は十人十色です。
 
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 今朝、ラジオに出演されていた安藤美冬さんの若者らしい登頂法に、ついつい聞き耳をたててしまいました。登山道は違えども、目指すところは私と同じだと思いました。
 彼女はスマホを遠ざけることによって、大切なものに気づいたと話されました。
 現在、コロナ禍で、大学生は大変な状況にあると漏れ聞きます。
 授業もサークル活動もなく、友達さえいない大学生活を、誰が想像したでしょう。何のために頑張って受験生活に耐えてきたのかと思っても不思議はありません。
 人と繋がる方法を模索する毎日、若者はSNSがそのさみしさを埋めてくれることは決してないことに気づき始めています。
 先の、安藤美冬さんは以前は一日中SNSで発信して10万人のフォロワーを誇っていたそうです。それが、あるときから、これは何かおかしいのではと感づいたといいます。
 何のためにこんなことをしているのか。誰のために生きているのか。
 そうだ、スマホを封印してみよう。
 そうしたら、空がこんなに美しいことにびっくりするようになり、自然とお話できるようになったとのこと。
 人と繋がることが良いことだと喧伝されているが、繋がりでがんじがらめになる人間関係から離れてみよう。  
 離れて分かったことは自分という確かな存在のことです。一人残った自分とは離れられないことを知ります。
 たとえ、荒野に一人ぼっちになったとしても、自分という存在は最後まで道連れです。
 この世で一番大切なものは自分だったのです。
 自分を愛すことに気づく人が一番幸せな人なのです。
 他人にやさしくできるのは、そういう人であることは古来から言われる真実です。
 あなたは、どこから、なにから、そこに至りましょう。
 私は「人間は大自然の一員である」という言葉から、目覚めました。
 べつに登山するわけでもなく、ましてやサーフィンできるわけでもありませんが、ふと見上げる空が私に語りかけてくれるから孤独はありません。
 心が満たされていれば、この世の怖いものや悩みなどは些細なことです。
 健康に過ごすためには、自然を友達にすればよいと心底信じています。それがすべてだと思っています。
 あなたは、どの道からこの頂上を目指す旅を始めますか?