こころあそびの記

日常に小さな感動を

一番よく効く薬

 体に効く薬とは。
 まずは飲む薬、次に感じる薬。
 五月晴れの澄んだ青色を見上げるだけで心の垢が洗い流されていく感じがします。
 そこで立ち止まってはもったいない。
 歩いていくと、水を湛えた田んぼにツバメが低空で飛び交い、水面には空が映っています。
 叢に視線を留めていたら、何種類もの蝶々を見ることができます。
 お世話に忙しい季節を迎えた農園には、人影があります。

 こんな日は、「一番の薬は、感謝すること」ということが素直に信じられます。
 自然があることは、大いなる計らいでありましょう。

 昔、堀美智子さんが薬剤師は何歳になっても、その年に応じた仕事ができるとおっしゃっていましたが、それは、薬剤師に限らず人間としての心得であると思います。
 近頃、年をとることの怖ればかりが流布されて、その年齢に相応しい喜びがあることをお忘れではないでしょうか。
 どの年齢にも、その日にしか分からない感慨があるものと信じたいものです。

 美しい朝に感激してしまいました。

 「いけがきのかなめ花さくにはの面に
  けふさみだれのふりそめにけり
昭憲皇太后御歌」

 明治神宮の手水舎に書かれていた御歌です。
 東京は今週から入梅したそうです。
 この六月のお歌が心に染みる景色になっていると想像します。

 上京のご挨拶に、いつも最初に「明治神宮」にお参りするのが自分の約束事です。
 今回は菖蒲園が美しい時期に重なり、しかも梅雨入り前の貴重な晴天の日に伺えたことは、ありがたいことでした。
 

 原宿駅は旧駅舎が、立て替え完了していつもより人の流れがよくなった気がします。あの雑踏がちょっと懐かしい。橋の上のカラスさんもいない静かなお行儀の良い町になっていたことに時間の経過を感じたことです。

 明治の森の中を森林浴しながら進んで、空を映す菖蒲園を堪能したあとは、加藤清正の井戸へ。
 あの名物、”小鳥のおじさん“がおられなかったことを淋しく思いました。お元気にされていますか。

 明治天皇のお歌が、先の昭憲皇太后のお歌に並んでありました。

 「わが庭の池の汀の花あやめ
  まこもまじりにさきいでにけり
           明治天皇御製」

 季節を楽しむことを教えてくださっています。

『壺中居』

 我が庭の紫陽花が色を七変化させるものやら、純な青色を貫くものなど、株によって違う花を咲かせる頃になりました。
 剪定がまずくて姿はぶさまですが、しっとりと華やかに梅雨ですよと季節を教えてくれる花です。

 肥後細川庭園で教わったことですが、アジサイは全て日本原産だそうで、シーボルトが日本のアジサイを持ち帰って改良されたのが「西洋アジサイ」だとか。
 花期が長いことから、この時期にアジサイ寺のツアーが企画されるのも愛好家が多いからでしょう。

 旅の続き。
 東京では完全におのぼりさんですから、日本橋高島屋を出て、キョロキョロ。
 左右を見るまでもなく、道路を挟んで目の前に『壺中居』があったことにびっくりしました。どなたかに道案内されたのではと思うくらいに上手くたどり着けました。
 不思議な店名です。
 NHK美の壺』の座敷に掛かる掛け軸に書いてあるのは「壺中天」。
 壷の中に別天地があるという意味。
 叶匠寿庵のお菓子は「一壷天」。
 これだからいやでしょ。テレビ観ながらお菓子をいただく以上の寛ぎ方を知らない庶民です。

 『壺中居』という老舗の屋号は、その別天地を住居として心豊かな時間を過ごしてほしいという思いが込められています。
 大形先生の授業で『洞天福地』という言葉を習ったことがあります。
 洞窟のような場所のことで、小さな穴があると、人はその先に入ってみたいという冒険心を抱きます。
 そこは桃源郷で、理想世界が待っています。あぁ楽しかった。しかし、二度と行くことができないところがミソだと思います。
 そのあたりが、この世の人間が考えついたように思えてならない笑い話です。
 人間が産道を通って生まれ落ちた記憶がこのように語らせるというのは無理があるでしょうか。


 さて、この老舗の看板。
 店内の階段踊り場に掛けられていたので、
 「写真撮っていいですか?」と若いスタッフに訊ねましたら、
 「いいですよ。会津八一さんの書です。建て直す前は外の看板でした。白いところは何回か漆喰を塗り直したらしいです。云々」と、初々しく説明してくださる姿に好感が持てました。
 
 錚々たる面々が、この看板の元に集まられたのですね。
 白洲正子さんと細川のお殿様がお話されていたなんて。目と心を養うハイレベルの教養サロンです。それこそ、庶民にとっては夢の『壺中居』です。

肥後花菖蒲


 肥後細川庭園のガイドツアーは、「先週の『ブラタモリ』をごらんになりましたか?今日解説くださるのは、出演されていた鈴木先生です」という言葉で始まりました。
 あいにく、見てなかったのですが、さすがにお殿様のお世話は一流人がなさるものと、期待で胸弾みました。
 
 スタートは庭園に入る門のところに咲いていた菩提樹の花の解説からです。
 六月に咲く花とはいえ、2,3日前には咲いていなかったそうで、しかも一週間ももたないと聞けば、今日、来られた幸運を感謝するばかりでした。
 菩提樹の花がこんなに香るとは知りませんでした。俯いて咲く花に蜂が群がって密集めをしています。


 菩提樹といえば、お釈迦様がその木の根元で悟りを開かれたことで有名です。
 でも厳密には、このインドボダイジュはクワ科で、今、日本に植わっているシナノキ科とは違うようです。いいんです。細かいことは植物学者の先生におまかせして、この芳しい香りを嗅がさていただきましょう。
 嗅いでいると、お釈迦様が悟りを開くために、大いに貢献した香りであることがなんとなく分かるように思えました。


 横道に逸れますが、1964年発売の『リンデンバウムの歌』を覚えておられる方はもうおられませんよね。私は梓みちよさんのこの歌が好きでした。ハスキーボイスでありながら正確な歌唱でした。調べたら、なんと岩谷時子作詞、山本直純作曲だったのですね。
 美しいメロディーとせつない歌詞がマッチした名曲でした。
 


 庭園は、花菖蒲の第一陣が咲いていました。
 「みなさん、これだけは今日覚えて帰ってください」と鈴木先生が教えてくださったのが、「あやめ」、「かきつばた」、「ハナショウブ」の見分け方です。
 「アヤメ」は花びらに綾目模様があって、水中には咲かない種類。
 「カキツバタ」は水草で、水深15センチくらいのところに咲きます。葉の幅は広くぺたんこです。
 「ハナショウブ」は湿地でも丘でも咲きます。葉が特徴的で、真ん中に1本筋が見られます。
 と、聞いたから直ぐに見分けられるものでもありませんが、これからじっくり観察してみたいと思いました。

 この日のツアーのメインは「肥後花菖蒲」です。
 花菖蒲は菖翁と異名をとった松平定朝がコレクターとなって江戸花菖蒲の元を作ったそうです。その一部を細川藩が譲り受けて肥後花菖蒲として改良を重ねて、ぷっくらした花菖蒲を作り上げたとのこと。
 細川庭園は、季節ごとに楽しめるお庭ですが、誇れるものとして花菖蒲があるようです。

 青空の映る庭園の池の周りを歩いていると、ついついお殿様が過ごされていた空間にいるような気分になってきます。
 時空を超える感覚が持てるのは、歴史が埋まっているからかもしれません。

東京チムドンドン

 旅に出ることは、人間が野生を持っていたころのなごりなのでしょうか。いくつになっても、幼稚園児のどきどき感と変わらない興奮があります。
 前もって切符を買っておかないと安心できないのは、まだまだ旅なれていない証拠ですが、今回もやっぱり前々日にみどりの窓口に行ってしまいました。
 前に並んでおられた女性は私より少し年長のようにお見受けしましたが、四国の観光列車を、ご自分の書いたメモを見ながら完璧に購入されたことに驚きました。
 「左側の窓側」とか「三号車の一人掛け」とか、事前の調査がすごいのなんのって。
 更に、「時間をとってごめんなさいね」と後ろに並ぶ者への配慮も忘れずになさるのには、いい勉強ができたと感心したことです。
 

 同じ一人旅でも、今回の私の旅の目的はただ一つ。細川のお殿様ゆかりの場所を巡るワンデイツアーです。
 先週の火曜日から土曜日まで開催の日本橋での個展を拝見するのが主目的とはいえ、時間が許せば以前から行きたかった「永青文庫」と「肥後細川庭園」を行程に入れようと目論みました。
 電話したら、庭園のガイドツアーは土曜日しかありませんでした。つまり個展の最終日に当たります。もしも、当日が豪雨なら上京はあきらめざるを得ないという選択でした。
 イチかバチか、一週間、天気予報とにらめっこの毎日を過ごして、出発前にほとほと疲れてしまいました。
 ところが、お恥ずかしいことですが、当日、新幹線に乗り込むやいなや、そんな疲れはどこへやら。心は東京へ向かって一直線。
 老齢だからと怖れずに、まずは出発してみることが大切なのだと教えられる旅の始まりでした。それには、あの観光列車を買われていた女性に勇気をもらったことも大きいことでした。
 

 旅の余韻は、今も私を包み込んでくれています。
 お殿様を拝顔したわけでもないのに夢の中にいるような感じです。
 実は、図録を送っていただいていたので、ファンレターを隠し持っていました。
 家に帰って、「渡せた?」と娘に訊かれ、「そんなわけないやん。『二階に本人がいますから直接お渡し下さい』と受付で云われて縮こまってしまったわ」と、その火照りをまた思い出してしまいました。
 
 しばらくはこの旅日記が続くと思いますが、ご勘弁を。
 それにしても、「チムドンドン」が心と体にもたらす効果を確信した旅でした。

方言は家の温もり

 

チムドンドン』。主役の黒島結菜さんが上手に沖縄弁を話されるのは、どうしたことかと思ったら、なんだ、ネイティブだったのですね。
 俳優さんが方言指導を受ける様子がレポートされることがあります。
 音符で上がり下がりを習っても、イントネーションの表現に結びつけるのはなかなか難しそう。
 中でも大阪弁は難しいようで、生粋の大阪育ちには「ちゃうやろ!」と聞こえることが多いように感じます。

 独特の方言を持つ人を羨ましく思っています。その地方の温かみが伝わってくるからです。なのに、近頃は、耳にする機会が減ってきました。
 何年か前、孫がちょっとした医療事故に巻き込まれたことがありました。
 家族がどれほどの悲しみに沈んだことか。
 治療に当たるスタッフには、その心情に寄り添える力量がある方はなく、あるいは、後々の裁判のことを考えてのことだったのかもしれませんが。
 事情はどうであろうと、家族の孤独感は募るばかりでした。
 そんなとき、看護婦長さんの宮崎弁にどれほど癒されたことかと、今でも方言の話になると思い出すことです。
 その話術には、もちろんナースとしての経験の下敷きもあったでしょう。それでも、経験を上回る宮崎弁がないと、頑なな患者家族の心には届かなかったと懐っています。
 聞けば、宮崎の方は大阪で看護の職に就かれることが多いそうです。
 大阪弁にはない優しさを含んだゆったりとした宮崎弁は、これからも沢山の人を癒すことでしょう。

 方言はその地で熟成してきたもの。
 でも、同じ土地出身の人同士が結婚しないと、言葉は混じっていきます。
 実は私もその一人。
 大阪のど真ん中で育った父母の子供ですから、自分では大阪弁を話しているつもりでした。少なくともイントネーションは大阪弁だと思っていました。
 ところが、小学校六年生の時、担任の先生から受けた指摘に衝撃を受けることになります。
 「おまえの大阪弁名古屋弁が混じってるな」
 ええっ?にわかに信じられないことでした。
 幼い頭をくるくる回して考えてみたところ、名古屋に関係のあるのは、祖母でした。祖母は親が転勤族だったので、名古屋高女出身です。
 祖母の母方は播磨弁、父方が名古屋弁であることに思い至りました。
 縁あって大阪に嫁したものの、言葉は名古屋弁だったから、母が聞いて育った言葉は純粋な大阪弁ではなかったのです。
 言葉は出所を隠せないことを思い知ったことです。

 今日もタクシーの運転手さんに効かれました。
 「どちらからですか?」
 「大阪です」
 「そうなんですか?大阪らしく聞こえませんね。家の息子の嫁も大阪出身ですけど、妹から電話かかってきたときだけ大阪弁で話してます」
 ですよね。ほっと気がゆるんだ時だけ、というか、方言で話すと家に帰った感じがするんですよね。
 
 純粋な方言を大切にしてほしいと願います。家族が集まった時に出る和みの言葉だから。

手編みの毛糸パンツ


 
 薬剤師の仕事の範疇が広がっています。その一つに老人施設の訪問があります。
 つらい現場に遭遇することもありましたが、そんな中でお話の弾んだAさんのことを思い出すことがあります。
 それは、彼女が母と同窓だったからです。そうやったそうやったと、私が聞き馴染んだ女学生の姿を彷彿とさせてくださる方でした。
 宝塚歌劇に没頭して、追っかけをすること。ブロマイドを集めること。学校帰りには、お友達と一緒にお好み焼き屋さんに寄ったこと。 などなど、生き生きと話してくださる内容は、どれも母と同じでした。
 楽しかったことを思い出すという行為は、どこにも売っていない最高の脳内活性をもたらす薬です。
 彼女を見習って、これだけはという自慢話を持たなくてはと思っています。

 ところで、経験のない私達にとっては、戦時下にあっても青春を謳歌したというのは想像しにくいところです。
 そんな戦中の青春が描かれているのが、現在再放送中の田辺聖子さんの『芋たこなんきん』です。
 彼女も樟蔭高等女学校の同窓生。その後、女専に進まれるところが母とは違うところです。
 母はこっそりと言ってました。「よかったわ。私は勉強せんでもよかった」と。それは、戦争が激しくなって、軍需工場に動員されたり、畑で芋を作ったりせざるを得なくなったためとはいえ、末っ子の甘え上手がなせる技だったのかもしれません。

 今朝のドラマで画面に大写しになった毛糸のパンツ。その編み目の手作り感が懐かしくてたまりませんでした。
 おばあちゃんが編んでくれた手編みのカーディガンを着て、真っ白な割烹着姿の彼女と一緒に公園のベンチに座っている白黒写真があります。色あせても私の大切な宝物です。
 多色編みで、前たてにちゃんとボタンが付けられたものです。
 自分で編んでみると分かるのですか、これは結構根気のいる作品です。
 物のない時代に材料を工面して孫に編んでくれた気持ちを思うと、ありがたみが今頃になって沁みてきます。
 母が誕生して直ぐに夫に先立たれ、残された工場を女手一つで回した祖母は私に残る印象よりもずっと強かったのでしょう。
 婦人会の会長をこなし、お預かりした女中さんの躾もよくして親御さんに感謝されたと聞いています。
 

 そんな語り草にならなくてもいい。ちょっと思い出してもらえるオババになりたくて、孫たちに編んでやろうと冬が近づく度に思いますのに、残念ながら、真っ直ぐ編みのベストでさえも実現したことはありません。
 だんだん大きくなる孫の背中を見ながら、今年こそ!の決意が失せていくだめなおばあさんです。

 追記

 今日は旧暦で5月5日の端午の節句です。
 元はこどもの日ではなく、邪気を寄せ付けないための行事でした。
 その中に、“粽(ちまき)”や”ドラゴンのボートレース“があります。
 コロナ禍の私達だけではなく、大昔から人類は邪鬼と闘ってきたことがわかります。
 薬があるからとかワクチンがあるからという単純な問題ではなくて、深い畏れを持った先人に敬意を払いたいと思うのです。

 野鳥が子育ての最終段階を迎えている様子です。
 裂けてしまいそうに口を開けて、お母さん鳥を呼び続けている小鳥を見つけました。
 ママの言いつけを守って、この電信柱に作ったブッシュから出ていかないのです。野生とは、備わったものであることに感心しました。
 

 人間だって、自分のいのちを守ることは命の遺伝子の中に書き込まれているはずですから、教えられなくてもできるはず。それでも、自分流をかき乱される情報に惑わされて、心を病んでしまう事象が散見されるに至っています。
 
 原因は、ルール(規則)だと見ます。
 社会生活にはルールが必要です。だからといってがんじがらめになったら自分を傷めます。
 もし、ルールと愛のどちらかを選びなさいと言われた時、迷うことなく愛を取るということに、躊躇が見られるようになったら、それは潤いのない社会になっている証です。
 ルールは人間を疲れさせる作用があるから、真面目な人、他人を信用し易い人ほど疲弊します。

 ある日の投書欄に、駐輪場で親が娘を叩いてるところに遭遇した。どんなに叩かれても幼い娘は「ママ、ママ」と叫んでいる。それを見た私はつい口を挟んでしまった。その後、私とお母さんは思いを共有して二人して泣いた。とありました。
 いいお母さんでよかった。だから、いい人に出会えました。
 手をあげたのは何が原因だったか分かりません。
 お疲れがあったのかもしれません。そんな事情を汲んだ上で、我慢できず、しゃしゃり出たおばさんの優しさと勇気に救われました。もちろん、素直に他人の言葉を受け入れられるキャパの大きなお母さんにも拍手です。
 こんな社会っていいですね。
 人情という愛が残っていることをうれしく思いました。


 「愛」絡みで先日の人生相談を一つ。

 相談者は初老の女性。
 回答される先生は精神科医の熊木徹夫さんです。
 相談者「先生、私ね、昔の彼氏から会わないかと誘わ   れていますが、迷っています」
 回答「会ったらいいですよ」

 うわっ~びっくりしました。
 彼女の心が会いたい方に傾いていることを見越してのお応えだった?あるいは、いかにも男性的?
 会わずに、いつまでもこそこそと思い出していたい、と思う私は女だからでしょうか。
 
 なんでもいいんです。たとえ燃え滓であろうと、心を温めるものを持っていることが素敵じゃないですか。
 子供への愛でも、異性への愛でも、愛を一つでも持って生きることは、自分を奮い立たせるエネルギーを産み出せるということです。
 ルールはルール。決して自分を楽にさせてはくれません。そんなことを守るよりも、愛するものがある人の方が、どれほど幸せであることか。
 いのちの泉は愛あるところに湧いてくるとは、故あることです。