こころあそびの記

日常に小さな感動を

ご無事でありますように

 絶好日和。
 稲に穂が出て、ところどころ花が咲き始めています。
 台風さんどうぞお手柔らかに通過ください。

 標高差が200mあるだけで、なんだか空に近づいたように感じるというのに、毎朝、BSで拝見する2000m級の山の頂上に立つ人はどんな気持ちになるのでしょう。
 自分には体験できない世界です。
 200mつき合ってくれたヨレヨレの脚に感謝です。楽しかったよ。

 山から下りてきたところで、自転車を引くご老人に呼び止められました。
 「青山大学はどこですか?」
 「大学はここから真っ直ぐ上って行ったら、山の方に見えますよ」と応えたものの、どうも大学に行かれる感じでもなさそうなので、
 「大学にいかれるのですか?」
 「いいえ。劇団をされていた方のお宅に行きたいのです」
 「住所わかりますか?わかればGoogleマップでお調べしますよ」
 「えらいすみません」と、前かごをガサゴソ。
 「お名前は?」
 「・・・」
 防犯カバーの掛かった物入れ同然の前かごの中から、ようやく出てきた一冊のノート。ページを繰っても繰ってもそれらしき記載は見当たりません。
 「家内が昨日要らないものを捨てたので・・」
 結局、お役に立てずにお別れすることになりました。

 押しておられた自転車は見たところ随分年代物。それを押して坂道を上がれたとしても、帰りはどうなるのだろう。八十代とお見受けしましたが、その後、ご無事に帰宅されたかと心配しています。

 いずれ自分も通る道。
 その日のことを考えると、えもいわれる思いがあとを引く遭遇でした。

 山道で見つけた数個のムカゴ。なんだこれだけ、とは思いませんでした。今日、与えられるものに感謝する心得を教えられた気がしました。
 お粥にいれてみました。
 棗とクコと梅干しと。

外遊び

 ポストに元気いっぱいのお便りが届いていました。
 やさしい時間を過ごしていらっしゃることが文面に溢れています。
 彼女にあやかって、今日も元気に過ごそうと思えました。ありがとうございます。

 体が重いなぁと思う日も散策に出かけます。そこらじゅうに無料展示されている生きた自然図鑑を見ていると、ワクワクしてきて、いつの間にか快調になっています。
 陽気は動くことで補充されることを実感できます。
 気になる光景に出会えば、写真を撮って、Google検索という便利な機能を使えば、大抵のことは分かります。
 あきることのない自然遊びです。


 昨日、水月公園を歩いていると、小さくてかわいい色の実が鈴なりに生っていることに気づきました。
 桜かしら?でもこの時期とこの色は違うよな。
 そう思って調べると「エノキ」でした。
 幹もズッシリした象の足のようだったので、自分の中で確定しました。
 大きな樹木にこんな小さな実が無数について、小鳥たちに餌を提供するという自然循環を作り出したどなたかの配慮に頭が下がります。
 豊さ、謙虚さ、助け合い。
 なんといろんなことを教える自然でしょう。
 エノキは落葉樹。裸になっても、幹が立派で思わず手を当てたくなる頼りがいのある木です。

 公園を出たところの、「青面金剛」にお参りして、ふと、見上げるとネムノキに種が付いています。
 あの繊細な毛束のような花からは想像できませんが、なんとネムノキはマメ科だそうです。
 その正体を顕現するのが、この種です。
 梧桐と同じく、”さや“のようなプロペラで遠くに飛んでいきます。
 木に興味をもってから、上を見てだめなら、下を見てみます。
 木の下には、、この時期、樹木を同定するヒントが落ちていることが多いからです。


 

 かわいい栗の実を見つけました。
 栗より小さいから、シナグリでしょうか。
 幹は一抱えではきかない太さに育った大きな木です。
 思わず歌いたくなりますよね。

 「大きなクリの木の下で
  あなたとわたし
  仲良く遊びましょう
  大きなクリの木の下で」

 こんな大きな栗の木に出会うことも少なくなりました。
 栗の木は堅くて丈夫ですから、建材に使われます。我が家の階段はもう半世紀、みんなの足に踏まれながらも元気です。

優しくて手技も確かなお医者さん

 千里川沿いを散歩してたら、ナンキンハゼに実が生って、ところどころ紅葉が始まっていました。
 今朝の大阪は21度と冷え込みました。
 カラッとした空気になって、息が楽になるのが秋です。
 季節が巡ります。
 

 「その年まで病気したことないなんて、みんなびっくりしはる」と、娘が言います。
 確かに、産後、お医者さんにお世話になったことが殆どなくて、当世医者事情も知らずに来ました。
 
 先日、孫娘が巻き爪になって痛がっているのをみかねて、直ぐに診てもらえるので有名な近くのお医者さんに連れて行きました。
 開院当初から外観に変化なく、事務所みたいで愛想がありません。そこが医院だとは、気づかない人もいそうです。
 診察を終えた娘が帰ってきて、手振り身振りでその様子を実況してくれました。それによると、「これは痛いなぁ。ちょっと我慢やで。」と椅子にすわったまま、腰をかがめて爪先を一発で切ってくださったことに、びっくりしたというのです。
 先生はもうそんなにお若くなさそうなのに。
 
 そういえばと、別の孫の予防接種のときの大騒動を思い出しました。
 嫌がって泣き止まない子供のことを、二時間も待ってくださって、申し訳ないことした。でも、そんな先生いはる?と。

 外科、リハビリテーションを標榜されていますが、どんな困り事にも対応できることを、本当は私も知っています。
 母が具合が悪くなったとき、かかりつけ病院は遠く、近くで来てもらえそうな先生を手当たり次第に探し回っていたときのことです。
 どこも今日は無理ですと断られましたのに、この先生だけは、行ってあげますよ、と応えられたのです。結局、在宅専門の先生の到着が早くて、申し訳ない結果となったのですが、そのタフで優しい対応は、近頃見かけることのない町医者そのものでした。

 自分が医者にかかることがないので、今まで気にもしなかった近くのお医者さん。
 そろそろ、かかりつけ医をもたなくてはいけない年齢になってきましたので、この先生にお頼みしておこうかと想ったりしている今日この頃です。

秘める思いの行方

 

長かった『瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜』70話を見終わりました。
 何が大変って、字幕を読まないといけないのでテレビの前から離れられず、ほかのことが一切できない不便さを乗り越えての観了でした。

 紫禁城は1987年に世界文化遺産に登録されました。
 愛新覚羅一族の最後の皇帝を描いた『ラストエンペラー』の舞台です。
 中国に行かれた方から、規模が違う、広さが違うと聞きますが、ドラマのための作り物であっても画面から十分に窺えました。
 

 清王朝満州族のたてた国です。
 その統治方法は漢民族の風習を容認しながらのものだったそうです。
 ドラマを観ていると、日本でも行われている七夕をはじめ、風習がたくさん出てきて興味深いところです。
 漢方医療についても勉強になります。
 胃が弱っているお姫様にお餅を食べないように侍医が忠告するシーンでは、食べていた「赤福餅」が喉に詰まりそうになりました。
 芋や餅など粘度のある食品は、胃弱の人は控えましょう。なんて決まり事は絵に描いた餅。
 本当に体が拒否したときにはわかるはずだから、そうなるまでは、まぁいいかと食べてしまうダメな私です。
 
 墨、硯、筆、紙や調度品。扁額に掲げられている書の筆跡の美しさも楽しく観させてもらいました。


 そして、肝心の内容です。
 「女官から皇后へ上りつめた実在の女性をモデルにした宮廷愛憎劇」とあります。
 ほとほと疲れ果てるくらい、これでもかというくらいの憎しみ世界です。
 それでも、見続けられるのは、ヒロインの奔放ぶりの根底に消えることのない純情があるからです。
 心の中で誓い合う二人。
 最後は「僕は君を生涯をかけて守り抜いた。来世は、君が僕を守ってくれますか」という言葉を残して死んでしまった彼に、「守る」とヒロインが天を仰いで終わります。
 結局、この一筋さに惹かれて、最後まで観てしまいました。
 そして、思うのです。叶わぬ純情ほど人を魅了するものはなくて、それは誰もが胸の奥に灯す希望のせいではないかと。

知識に先立つもの

 突然ですが、大形先生のお勉強メンバーの中に、庭園を研究されている方があります。
 彼は、長らく高校で漢文を教えておられましたが、今は引退されました。現役の教師でおられたときから趣味で庭園巡りを始められたそうで、現在は三冊目の自著の制作に励んでおられます。

 お庭を拝見する。お寺に行けば、拝観セットに付いていますから、ぐるっとひと回りして、いつしか記憶から遠ざかっていくことを繰り返しがちです。
 しかし、彼ならこう観ます。
 「阿波国分寺」の池泉回遊式庭園の記事から拾ってみます。
 「亀石、鶴石、石組みの橋、これらは中国の神仙蓬莱思想の影響を受けている」
 神仙蓬莱思想とは、東方の海上にあって仙人が住み不老不死の霊薬があるとされた島です。
 「三尊石組」は、阿弥陀三尊、釈迦三尊などを表すから仏教思想の現れとされます。
 そして、「阿波国分寺」の庭園では、それらを地元の阿波青石で組んでいるというのです。
 庭園を観賞するのに、中国哲学、仏教、歴史、地方の特色など、なんと勉強することが多いことでしょう。
 そして、絵画でも仏像でもなく庭園というのがいいですね。
 一つ一つ、楽しんで観賞してもらえたらと結んでおられます。

 日本には国宝級の庭が20件、重文級は200件を越える数が指定されているそうで、多分、私も、相当数行ったことがあるのに、記憶が薄れてしまっています。

 何も知らなくてもお寺巡りはできますが、少し知ることで、観察眼が開いて、より深い感動が味わえるはずです。
 しかし、ここが面白いところで、知ったから、知らないときに感じた感動があるかというと別物なのです。分析しすぎは、感性を失わせてしまいます。

 先日、梧桐の種子をつけたプロペラがあんまりかわいいので、大形先生に写真を送ったら、返ってきたコメントは「かわいいが正義」でした。
 さすが、荘子の先生です。
 


 生きる妙がここにあるように思います。
 知識に先んじるものは、感性です。自己弁護ではありませんが、かわいいものをかわいいと感じる心が健全であるとき、人は生きているのだと思いました。

 その上で、知識は獲得しておくべきでしょう。
 たとえば、積雲よりも絹雲の方が高い空にあると知っていたら、天がより高く感じられるかもしれないという程度には役立ちそうです。
 それにしても、この世にはなんとたくさんの勉強の種が落ちているのでしょう。
 際限がなくて、とても、拾いきれないけれど、もし縁あって拾い上げたものなら、秘密の入り口くらいには立ってみたいものです。
 もちろん、お寺巡りの際には、庭園拝見も忘れずに!

甦った望み

 

  「水を運び 薪をとり
   湯を沸かし 茶をたてて
   仏に供え 人にも施し
   我も飲み
花をたて 香をたき
皆々仏祖の行ひの
   あとを学なり」

 お坊様をお迎えするために、久方ぶりに掃除というものをしていたら、この大好きなフレーズが浮かびました。
 言うは安く、成すは難し。
 日頃サボっているために、やってもやっても目に付く場所が減りません。
 
 母に叱られながら、掃除したことが思い出されます。
 掃除機かけて雑巾がけをして。お花を挿して、お茶の準備をして、玄関に水を撒く頃には疲れ果てます。
 
 さらに、昔は、応接間は台所から離れたところにありましたから、お茶を運ぶお接待の緊張感は、住宅事情の変化で娘たちには経験させてやれないものの一つです。

 お坊様が無事に帰られたあと、朝からの緊張から解放されて呆けてしまいそうでした。
 しかし、花が供えられ、お香の匂いが残る部屋の清浄な空気の中に一人居ると心が満たされていくことを感じました。
 毎日、こうしなければならないことは分かっていても、できない。
 映画『阿弥陀堂だより』の中で北林谷江さんが演じられたおうめ婆さんみたいになりたいのに、これじゃ、なれそうもありません。
 
 記憶の中で眠っていたことが、ふと湧き出すのは、仏壇の中の人が思い出させるからでしょうか。
 

 冒頭の千利休の言葉に先行するのは、

  「家はもらぬほど
   食事は飢えぬほどにて足る事也
   是れ仏の教 茶の湯の本意なり」

という言葉です。
 この境地を求めて、修行する人もありましょうが、老齢になれば誰しもが少なからずこの思いに近づくように思います。
 これからは、「茶をたて 仏に供え 花をたて 香をたき」、一人静かに写経をして、仏の教えを学びたいと。
 それが、自分のささやかな望みであったことを思い出した一日でした。

男らしく女らしく

 三伏をつつがなく過ごして、今日、脱出することができました。
 二十四節気では「処暑」。
 暦の上では晩夏極まる頃となりました。
 

 蝉に変わって虫の声。涼やかに奏でる秋の音です。
 緑陰を提供していた街路樹も少し色褪せたように見えます。
 

 車の中で、『男性が心配』という本を書かれた先生がお話されていました。

 確かに男性受難の時代だと感じています。
 男女平等社会と叫ばれて何年になるでしょう。
 ”平等“に適合させるために、男の子に裁縫を、女の子にトンカチを練習させる。それは、よしとしましょう。
 しかし、男らしさや女らしさまで口にしてはならないというのは、どこかへんで、いつかしっぺ返しを受けるとは思っていました。
 
 何度も引用して恐縮ですが、昔、「男の子は真綿に包んで育てたらあかんよ」「あんたは男や、男やいうて育てなあかんよ」と助言してくださるお節介なおばさんがおられました。
 男性女性の差別はいけないといいますが、同じであるはずがありません。もしも、同じなら、そもそも性差ない体であるはずです。
 男は戦いに有利なように瞬発力が、女は子育てに耐えられるように忍耐力や持久力が特質です。
 女は子を守るために、そんじょそこらの妨害に屈するほど柔ではありません。が、男の子は母親という女性が育てますから、男の子がかわいくてたまらない母親に育てられると優しさが助長されてしまいます。
 だから、町で出会ったおばさんは、声をかけてきたのでしょう。「真綿で包んだらダメ!」と。

 昨晩、中野信子先生が仰っていたことはこれを実証しています。
 「男は鉄砲を持たせるとテストステロン(男性ホルモン)が十倍にはね上がる」。
 男を、男に仕立てるには、工夫がいることが分かります。
 男らしさは、持って生まれたものではないのです。言い続けてやらねば、男になれないのです。

 今の子育てでは禁句とされている「男らしさ」は、社会に出たら即刻要求されます。そりゃ戸惑うことでしょう。
 引きこもり、自殺、同性愛・・。
 男の子は壊れやすいからと優しく育てるのではなく、鍛えてやらないと後で困るのです。

 平等社会が成熟に向かうためには、性差のより深い理解が必要だと思っています。
 このままでは男性受難時代にまっしぐらだという心配が、杞憂に終わればよいのですが。