こころあそびの記

日常に小さな感動を

甦った望み

 

  「水を運び 薪をとり
   湯を沸かし 茶をたてて
   仏に供え 人にも施し
   我も飲み
花をたて 香をたき
皆々仏祖の行ひの
   あとを学なり」

 お坊様をお迎えするために、久方ぶりに掃除というものをしていたら、この大好きなフレーズが浮かびました。
 言うは安く、成すは難し。
 日頃サボっているために、やってもやっても目に付く場所が減りません。
 
 母に叱られながら、掃除したことが思い出されます。
 掃除機かけて雑巾がけをして。お花を挿して、お茶の準備をして、玄関に水を撒く頃には疲れ果てます。
 
 さらに、昔は、応接間は台所から離れたところにありましたから、お茶を運ぶお接待の緊張感は、住宅事情の変化で娘たちには経験させてやれないものの一つです。

 お坊様が無事に帰られたあと、朝からの緊張から解放されて呆けてしまいそうでした。
 しかし、花が供えられ、お香の匂いが残る部屋の清浄な空気の中に一人居ると心が満たされていくことを感じました。
 毎日、こうしなければならないことは分かっていても、できない。
 映画『阿弥陀堂だより』の中で北林谷江さんが演じられたおうめ婆さんみたいになりたいのに、これじゃ、なれそうもありません。
 
 記憶の中で眠っていたことが、ふと湧き出すのは、仏壇の中の人が思い出させるからでしょうか。
 

 冒頭の千利休の言葉に先行するのは、

  「家はもらぬほど
   食事は飢えぬほどにて足る事也
   是れ仏の教 茶の湯の本意なり」

という言葉です。
 この境地を求めて、修行する人もありましょうが、老齢になれば誰しもが少なからずこの思いに近づくように思います。
 これからは、「茶をたて 仏に供え 花をたて 香をたき」、一人静かに写経をして、仏の教えを学びたいと。
 それが、自分のささやかな望みであったことを思い出した一日でした。