こころあそびの記

日常に小さな感動を

『天子蒙塵』get!

 

 突然ですが、NHKテレビの『ファミリーヒストリー』が続いているのは、それだけ家系図に興味が高まっている証拠かもしれません。

 私の父の両親は、戦争中に相次いで病気で亡くなりました。特に、母親が亡くなったのは終戦が近づいた暑い日だったと、その悲惨さを聞いたことがあります。亡骸を戸板に載せて、兄弟で焼き場まで運んだといいます。

 「神も仏もあるもんか」と漏らさないではおられない父でした。

 

 そんな過去を思い出したくない父でしたから我が家に家系図なんてありませんが、今は役所の方が協力してくださいますので、足を運ぶことを厭わなければ作れます。流行にのって作りかけたこともありますが、家系図を作ることより、親が子や孫に知っている範囲のことを話してやるというのも、血が通う方法のように思えて、中断しています。

 

 大形先生の教室に通う中国からの留学生の中に、あの孔子さまから63代目という学生さんがおられました。

 「孔家」の家系図は本仕立てで、すごい人数が記載されています。先祖が孔子だなんてかっこいいですよね。それともプレッシャーかな。

 

 こないだお昼をご一緒した男性から聞いた一言が心に引っかかってしまいました。

 「満州」です。

 そんなに遠い昔ではなく、ほんの少しだけ自分と重なる年代のことです。

 確かに、「愛新覚羅某」という名前を、新聞の死亡告知で見た記憶があります。

 

 

 ですから、十年以上前になりましょうか、横浜の講演会の講師が「愛新覚羅」というお名前だったことに感激して、高価な本を購入してしまったことがあります。

 自分の興味を掠ることなら、どんなことにも首を突っ込むミーハー婆さんです。 

 惜しむらくは、突っ込み通すという根性がないことです。すでに本棚のお飾りになった「愛新覚羅」本の背表紙を眺めるだけで、勉強に至っていないことはもったいない話です。

 

 意外に近い満州国のことを知りたいと思っていたら、満州が舞台の浅田次郎さん著『蒼穹の昴』シリーズの第五部に行き当たりました。

 第一部を読んでいるので、この中心人物なら理解できるかもしれないと考えて、箕面図書館と豊中図書館を調べましたが置いていません。近くの本屋さんに電話で問い合わせましたが、「そんな本はありません」とのお答えに愕然としました。本屋の危機が叫ばれているのに、この体たらくでは、と悲しくなりました。

 

 

 メルカリでも良かったのですが、心が急いて千里の本屋さんに並んでいるのを見つけて一括買いしてしまいました。

 すぐに読み出すわけないのに。

 飾って安心したいだけなんです。ほんとに貧乏性で困ったものです。

 『天子蒙塵(てんしもうじん)』。

 (天子は塵芥を外に蒙る。今、汝を苦しめているものは塵埃に過ぎない)

 それが、どんな意味なのか。天子が誰なのか。

 漢字の意味するところを早く知りたくなってきました。一冊目の冒頭は愛新覚羅溥儀と離婚した元皇妃の一人語りから始まります。わくわく。

孫の誕生日に思う

 

 今日は同居している孫三人のうち、まん中の男の子の誕生日です。

 彼が生まれて1ヶ月後に、すでにICUに入院していた私の母が息を引き取るという慌ただしい出産でした。

 モニターアラームが鳴りっぱなしの母の枕元に、新生児を連れていった娘には胆力を感じたものです。

 この世の最後に見た赤ん坊のことを、母は覚えているでしょうか。おかげさまで、来月から高校生になります。ずっと応援してやって下さいと、この子の誕生日が来るたびに毎年思い出す新旧の入れ替わり劇です。

 

 

 病院というキーワードで思うのは、先日の武見厚生労働大臣の発言です。

 働く現役世代に負担をかけている保険料の改善策が国会で話し合われていました。

 老人にとって、この問題ほど胸を痛める課題はありません。

 これは算数のようにバチっと割り切れる答えが出るものではないだけに、動かし難い問題を孕んでいます。

 

 高齢者の医療費を若者世代に押し付けている現実を打破する方法は、単純に考えると、高齢者の負担額を増やして少しでも医療保険からの支払いを減らせば良いように思われます。

 ところが、大臣が仰るには、負担額を増やすと高齢者の受診が減ることが目に見えている。というのです。

 それはつまり、医者の儲けが減るということです。

 実は、この武見厚生労働大臣のお父様がこの医療システムを考えた方ですから、息子さんがその功績を潰すことはできないというところに大きな壁があります。

 「皆保険制度」が国民の健康を支えてきたのだから、この制度を当然生かすべきという言葉が、どこか言い訳に聞こえるのは私だけでしょうか。

 

 

 高齢者は今までの擦り込みで、病院に行かなくてはならないと思いこんでるふしがあります。

 今、ベストセラーになってるような老人啓発本には、「70歳以上は検診するな」と異口同音に書かれています。

 その年で検査に異常が見つかって、手術や投薬に費用をかけたとしても寿命はさほど変わりないというわけです。

 大臣に反論するわけではありませんが、必要な人に必要な医療提供をするためには、不必要な人の受診を避けることも考えなくてはなりません。

 たとえ、開業医の収入が減って困るとしても、高齢者の考えるべきは受診姿勢であります。それには、自分の健康は自分で守る覚悟を持つことです。

 それこそ、国へのささやかなご恩返しができるかもしれない。そう考える老人がいてもいいんじゃないでしょうか。

”運“

 

 上の写真は、きのうの日没前の煙る六甲山です。

 こんな大気の汚れは今日の雨で洗い流されるものと思っていましたが、さにあらず雨上がりは花粉飛散が倍増するとか。

 百花繚乱の季節は、生物が一斉に目覚めるときです。春が来てうれしいのは人間だけではないという優しさを心の隅に置くと春景色を満喫できそうです。

 

 

 これもまた昨日のこと。カモたちが旅立って、さびしくなった川沿いを歩いていましたら、ヒドリガモのつがい二組とカルガモ四羽に会うことができました。

 カルガモの方は雌の争奪戦を繰り返しているのか、川面をバタバタと何回も追っかけ合いをするので、面白くて動画に撮ってしまいました。

 翼鏡の青緑色がオシャレでしょ。

 最後には、負けて一羽になったカモが鳴くんです。「ビービー」というか細い声が薄暗くなった川にこだまして、哀愁を誘う夕暮れでした。

 

 

 さて、わが「花梨の会」のメンバーのKさんは、中国大連で幼少時を過ごされました。

 満州のマイナス40度の寒さがどれほどのものかという例に持ち出されるのが、「お風呂上がりの手ぬぐいを野外でグルングルンと二回まわしたら、凍りついて立つんですよ」という経験です。

 ”濡れたタオル一枚が(刀のように)凍る寒さ“という表現から、満州の極寒のほどが想像できます。

 

 

 過日の講習会のお昼休みに、大阪城を見渡せる場所に陣取ったものの、風が吹き抜けるので移動を思案していました。

 そこへ、お帽子を素敵に被った男性が「ここよろしいか」と隣に座られたので、しばらくお話しすることにしました。

 「冬の寒さに逆戻りといいましても、真冬のそれとは違いますよね」

と、切り出すと、

 「私はマイナス30度の満州で育ちましたから、どうってことないですよ」

 「ええっ。大連ですか?」

 「いや、新京です」

 新京は大連より北の内陸部にありますから、さらに寒いはずです。

 「よくご無事にお帰りになれましたね」

 「ソ連兵が迫る中、アメリカと蒋介石が日本人を救出してくれたから、帰ってこれました」

 戦争していたアメリカが助けてくれるって、どういうこと?

 戦争終結後の米国の思惑がどのようなものだったのかは、歴史に疎い私には理解不能です。

 さらに彼が「日本のことが好きだった蒋介石」と表現したことにも、疑問符がつきました。

 

 

 個人の友情にひびが入るのは、単純な感情のいざこざが原因であることが多いのに比べて、国と国との関係は損得勘定などが絡むから、複雑で一筋縄ではいかないことだらけ。今日の友が明日も友でいてくれる保証はどこにもありません。

 

 

 いま、日本が置かれている境遇は不安定そのものです。台湾有事が勃発したとき、アメリカはどう動くのか。

 帽子の似合う彼が関わった当時の台湾とアメリカは友好的でした。しかし、今回も同じように日本を助けてくれるかは不明なのです。

 彼は、「すべては運です」と何度も繰り返しました。

 満州に置き去り、あるいは餓死したのは、住民の三分の二に及んだ現実を見知ってのことですから、その重みに返す言葉もありませんでした。

 平和の中で生かしてもらった70年間に恩返ししたいが、その方法が分からない。そう歯がゆく思っている老人は少なくないはずです。

 この幸せを孫や子も享受できますように。その願い事を片時も忘れずに居てやるしかありません。

後の世に贈る花粉

 

 朝、外に出たら、いつもと違う気だるい空気を感じました。振り向いて仰いだ太陽は雲間に滲んでいて、朝のさわやかはありませんでした。

 その後、仕事帰りに見たのは真っ白な六甲山。霞んでいるというよりは、白い幕が下ろされているような感じでした。

 花粉アレルギーなど無縁な私は、そこでようやく、花粉が大量に飛んでいることに気づいたのです。

 そういえば、さっきから、鼻をかみたくなったり、喉には違和感を覚えたりしたのは、このせいだったのですね。

 

 

 

 花粉症との勝負は、この花粉を感知した瞬間で決まります。

 あ~あ、私も花粉症になってしまった。と自分に病気を認めさせた人は、その後、立派な花粉症患者になることでしょう。

 そうではなく、花粉に刺激を受けたことを的確に感知して、洗い流そうとして涙や鼻水が出ることを、やったぁ!私の体は防衛反応が正常に働いてくれている。ありがたいなぁ。元気な証拠だわ。と思うか。

 人生は自分の思いようで、その後の方向が決まるといわれますが、体とのつきあい方にもいえることです。

 病気を安請け合いしないで、私の体はがんばってくれているなぁと思えば、この花粉シーズンも穏やかに過ぎていきます。

 なのに、テレビラジオが五月蠅すぎて問題ありますよね。連呼しなければ、病気を認める人も少なくなるでしょうに、それではスポンサーにお目玉食らってしまいます。

 昔から憧れられてきたマスメディアという仕事に行き詰まりが見られるようになったことからも、私たちが今、時代の転換点に居ることを思う今日この頃です。

 

 

 ところで、花粉といえば、こないだの上町台地のお話しにも登場しました。

 先にお伝えしたように、今から5000年前、人が住み着いたころには、すでにこの台地がありました。そして、東側、北側、東側は海でした。

 縄文時代には、その海からカキを採って食べていたこと、弥生時代になって、北側が閉じて東側に河内湖ができた頃には、湖岸でシジミを採ったとか。 

 そのもっと前、太古の地層からは、西の九州は耶馬溪から飛来した火山灰や、東は北アルプスからの飛来物もみとめられるそうです。

 台地以外は海の底です。生駒の山が2000m級で、紀伊山地は爆発を繰り返していたという絵は、まさに地球が生きていたことを教えてくれます。

 

 そして、上町台地の植生を調べるのに一役買うのが、「花粉」です。

 種は何千年も生きるとききますが、花粉みたいにふわふわ飛ぶものが、何千年も殻が破られず残ることはちょっと信じられない思いがします。

 なににしても、その時代の地層から出てきた花粉を分析することで、当時、どんな植物が台地を覆っていたかが推定できるそうです。

 そこから、縄文時代から弥生時代にかけては温帯針葉樹が混在するシイ・カシなどの常緑広葉樹の原生林に覆われていたと推測できるとか。

 中国南部から延びる照葉樹林帯がここにもあったという事実が、ロマンを呼び起こします。

 その後、稲作が始まると森林は草地に変わってしまいます。

 

 

 きょう、目の前を真っ白にするほど飛んでいる花粉が、後世の研究家に発掘されて、21世紀前半の花粉量は尋常じゃないと言わしめるのでしょうか。

 小さな花粉が歴史の証言者になるだなんて愉快なことです。

土地の名前

 

 寒い朝になりました。

 寒の戻りといっても、冬の寒さとは比べものならないのは、陽光が満ちてきたから。

 日溜まりに座っていたいのは犬も同じとみえて、ここがいい!とテラスに居座る昼下がりです。

 

 

 昨日の続きですが、私が小学校時代を過ごした上町台地のお話しです。

 古地図に、母校の南大江谷をはじめ、龍造寺谷、農人谷、清水谷とあります。懐かしい地名ですが、今は谷を外して町名になっています。

 では、なぜ古地図では”谷“がついているのかという疑問が残ります。。

 大阪城が建っている上町台地は、縄文時代には大阪湾に南部(堺方面)から突き出た岬でした。ですから、くねくねと谷が入り組んでいたのです。

 その一つ一つに付けられた谷の名前が残っているというわけです。

 谷町筋とは、上町台地の西側の谷筋だったことが分かりました。

 

 

 “地名が歴史を語る”と教えて下さった元、大阪城天守閣館長の松尾信裕先生のお話に興味深々でした。消えてしまった町名があることは返す返すも残念なことです。

 たとえば、越中井戸のある越中町。それは、細川越中守忠興の屋敷跡ですし、その南にあった岡山町は備前岡山の宇喜多秀家に因む町名でした。それを、森ノ宮中央と一括りにしてしまって、はたして生活者優先と言えるのでしょうか。

 町名から推し量れる歴史探索の可能性と、そこの住人の誇りを抹殺してしまった政治家の浅はかさを悔しく思ったりするのです。

 

 

 その執着はどこから来るのかと言えば、私自身、随分前から悩みに思ってきたことがあるからです。

 小学校の校区分けという単純な区画整理で曖昧になってしまった自分の家の氏神さま。

 それこそ古地図を見ると、このあたりは牧落地区だったことは確認できています。

 以前に牧落八幡さんでお尋ねしたことがありますが、こういうことはご当人からは云いにくいこととお見受けしたので、それ以上突っ込むのは止めたという過去があります。

 そのことを市軸稲荷神社の宮司さんにこぼしたら、さっき、「八幡さんですよ」とお電話くださいました。

 わざわざ八幡さんの宮司さんに訊いて下さったそうです。

 迷いながらお参りするのは神さまに失礼です。これでやっと、迷いが解けて確信を持ってお参りできることになりました。うれしいことです。

 

 

 市軸稲荷神社の宮司さんがおっしゃってました。

 一歩入ったとき感じるところがある神社が縁のある神社と。

 牧落八幡さんはそんな気を感じるところだから好きでお参りしていました。

 母が亡くなったとき、”牧落八幡さんに、お母さんがおられるよ”と見える人に教えてもらったことがあります。

 八幡パワーの母が守ってくれている。力強いことです。

大阪城公園で

 

 今日は大阪歴史博物館で開催された『森ノ宮には何があった』というテーマの講座に出席してきました。

 まさか、朝から夕方まで通しであるなんて思ってもみなくて、どうせ昼からは難波宮の見学でも行くんだろうと、軽い気持ちで行きました。

 そうしたら、なんと、これだけの先生が休みなく講義してくださって、ありがたいやらしんどいやら。

 終わったときには、ぐったりでした。

 でも、この講座。大人気で抽選に当たったから参加できたんです。会場は広い階段教室でしたが、欠席者もなく満員だったんですよ。

 

 

 せっかくの馬場町ですから、大阪城公園を通り抜けない手はありません。

 JR大阪城公園駅で降りて、ツアーコンダクターの説明を聞いている観光客の後ろをすり抜けて歩きました。

 お堀にキンクロハジロの大群が集まっていました。

 そういえば、さっき、阪急電車の中から、十三大橋北詰にホシハジロの大群が浮いているのを見かけたことを思い出しました。

 冬の間、おのおの好きなところに散らばって過ごしていたのに集合しているということは、いよいよ北に向けて旅立つ日が近づいているということでしょう。

 彼らの旅立ちは北風の強い日です。その風に乗って長旅をスタートさせます。今夜あたり、真夜中に上る月明かりに照らされて渡っていくかもしれません。

 また帰ってきてね。

 

 

 もう最終章の梅園でした。

 

 

 再来週には、人々の歓声は此処じゃなくて西の丸庭園の方で上がることでしょう。

 蛇足ですが、

「あおによし寧楽のみやこは咲く花の

 薫ふがごとく今盛りなり」小野老

 この歌の中で咲き誇っているのは梅なんだそうです。知らないことが多くて、お恥ずかしいことです。

 

 

 上町筋に出る間際、豊国神社にお参りしました。

 本殿前の階段下で、英語の説明に熱心に耳を傾けているご夫妻がおられました。

 個人旅行客でしょうね。日本が好きでいらしたことが分かるほど、真剣に参拝しておられました。

 大阪には観光できる場所がない中で、唯一といえる大阪城

 中国語、韓国語だけではなく、ラテン語も英語も聞こえてきました。

 ここの平和をそれぞれのお国に持って帰って、世界中が平和になりますように。

 

 

 平和の象徴のように見える公園ですが、このように穏やかになるまでには、どれほどの経験をしたことか。

 それが今日の講義内容でした。そのご報告はまた明日。

晴れた。時雨た。

 

 南岸低気圧が通り過ぎている加減で、明日は西高東低の冬型気圧配置になります。太平洋側は晴天、日本海側は大雪という教科書どおりのお天気になるそうですから、当然、気温も冬に逆戻り。体調管理に注意を要する週末です。

 一日早く、今朝の箕面の空は晴れ上がっていました。ひさしぶりに、こんな青空を仰ぐと心まで晴れ晴れしてくる思いがします。真っ白な洗濯物がひらひら揺れている情景がぴったりな朝でした。

 

 野暮用で家の留守番を仰せつかったので、庭で、ゆっくり春探しをしました。

 

 

 オドリコソウ。

 

 

 大好きなオオイヌノフグリ

 

 

 ノゲシも。

 みんないつもの場所で、芽を吹いて咲き始めていることに安堵します。

 

 

 サツキも元気に花芽を膨らませて、5月の連休に照準を合わせているようです。

 

 

 庭の片隅にハコベの群落があります。孫の誰かが、ウサギ当番なら喜んでくれたことでしょうが、残念ながら誰にも摘まれず思いっきり咲いて終わってしまいそうです。

 よくよく観察したら、白い小さな花が二つ三つ咲く準備をしていました。

 早春、ハコベ、青空に白い雲という役者が揃えば、思い浮かぶのはあれしかありません。

 文学に疎い私は、こういう時のために、宝物をため込んでいます。

 本棚から、細川護煕さんの『ことばを旅する』を出して、「小諸なる古城のほとり」のページを開けば、彼の墨跡の世界がひらけます。

 

 

 いいでしょ。こんなに気負いなく筆が持てる人になりたい。

 筆さばきが素直で誰でも読める。そういう字が好きです。

 

 ところで、詩の作者、島崎藤村は三人の娘さんを亡くし、その後奥方にまで先立たれたという悲しい体験をされています。

 この詩の全編に漂う哀愁はそんなところにあるように思われて、真実の美しさの生まれるところを見るには勇気が要ることに思い到ります。

 独りで生まれてきて、独りで死んでいく。

 そんなこと知っているし、わかっているけれども、身内を亡くした無念さを乗り越えるのは生易しいことではなかったことでしょう。

 それが、後段の、

 「昨日またかくてありけり 

   今日もまたかくてありけり 

   この命なにを齷齪(あくせく) 

   明日をのみ思ひわずらふ」

という境地にさせたのではないかと推測しています。

 

 

 亡くならずとも、離れて生活せざるを得なくなったショックが拭えないと、能登半島地震の被災者が漏らしておられました。

 「こんな事にならなければ、息子家族と最後まで一緒に暮らせたのに・・」と嘆いておられた寂しげな男性のお顔が忘れられません。

 人生にはハプニングがつきものです。その一つ一つが自分の成長の糧になると思ってはみても、腑に落ちるまでには、まだ長い時間がかかりそうです。

 

 それでも、能登の春は必ずやってまいります。

 自然が何事もなかったかのように巡ることは驚きでもあり、恨み節の一つも云いたくなるところです。であったとしても、被災者にとっては何よりの励みになるはず。

 春が運んでくる希望とは、なんとありがたいことでしょう。