寒い朝になりました。
寒の戻りといっても、冬の寒さとは比べものならないのは、陽光が満ちてきたから。
日溜まりに座っていたいのは犬も同じとみえて、ここがいい!とテラスに居座る昼下がりです。
昨日の続きですが、私が小学校時代を過ごした上町台地のお話しです。
古地図に、母校の南大江谷をはじめ、龍造寺谷、農人谷、清水谷とあります。懐かしい地名ですが、今は谷を外して町名になっています。
では、なぜ古地図では”谷“がついているのかという疑問が残ります。。
大阪城が建っている上町台地は、縄文時代には大阪湾に南部(堺方面)から突き出た岬でした。ですから、くねくねと谷が入り組んでいたのです。
その一つ一つに付けられた谷の名前が残っているというわけです。
“地名が歴史を語る”と教えて下さった元、大阪城天守閣館長の松尾信裕先生のお話に興味深々でした。消えてしまった町名があることは返す返すも残念なことです。
たとえば、越中井戸のある越中町。それは、細川越中守忠興の屋敷跡ですし、その南にあった岡山町は備前岡山の宇喜多秀家に因む町名でした。それを、森ノ宮中央と一括りにしてしまって、はたして生活者優先と言えるのでしょうか。
町名から推し量れる歴史探索の可能性と、そこの住人の誇りを抹殺してしまった政治家の浅はかさを悔しく思ったりするのです。
その執着はどこから来るのかと言えば、私自身、随分前から悩みに思ってきたことがあるからです。
小学校の校区分けという単純な区画整理で曖昧になってしまった自分の家の氏神さま。
それこそ古地図を見ると、このあたりは牧落地区だったことは確認できています。
以前に牧落八幡さんでお尋ねしたことがありますが、こういうことはご当人からは云いにくいこととお見受けしたので、それ以上突っ込むのは止めたという過去があります。
そのことを市軸稲荷神社の宮司さんにこぼしたら、さっき、「八幡さんですよ」とお電話くださいました。
わざわざ八幡さんの宮司さんに訊いて下さったそうです。
迷いながらお参りするのは神さまに失礼です。これでやっと、迷いが解けて確信を持ってお参りできることになりました。うれしいことです。
市軸稲荷神社の宮司さんがおっしゃってました。
一歩入ったとき感じるところがある神社が縁のある神社と。
牧落八幡さんはそんな気を感じるところだから好きでお参りしていました。
母が亡くなったとき、”牧落八幡さんに、お母さんがおられるよ”と見える人に教えてもらったことがあります。
八幡パワーの母が守ってくれている。力強いことです。