『 雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 』
昨晩、友人とメールのやりとりをしました。
我が家にコゲラという小鳥がやってきたという話から、
「私も、近ごろ、小鳥の声が聞こえるようになってきたけれど、どうしてかな?年とって、耳も遠くなっているはずなのに・・・」と友人のリプライ。
そうなんです。耳で聞く音ではなくて、心で音が聴けるようになるのも老年期の楽しみの一つですよね。
そのとき浮かんだのが、三好達治の「雪」でした。
雪国の人にはお叱りを受けること覚悟の上ですが、この詩は雪を夢想する大阪人にとっては音なき音に浸れる最上の無音の情景なのです。
大阪、市岡中学出身の三好達治もひょっとすると雪国出身ではないからこの静かな静かな音を感じられたのでしょうか。
物事は、知らないよりも知っていた方が興味の幅も広がるし、深く理解できると一般的には思われています。しかし、こと感性の部分では知らない方が却って研ぎ澄まされるものかもしれないと思うとなんだかうれしくなってきました。知らないことが素晴らしいなんて。
たとえ認知症だ、物忘れだと、み~んな忘れてしまう日が来たとしても、感じる心さえ残していただけたら私は幸せですと神様にお伝えしておこうかな。
ところで、こんなこともあるのですね。”雪ふりつむ“と心で唱えて寝たからでしょうか、出勤しようと外に出たら雪が舞っているではありませんか。
冬の粉雪でも、春の牡丹雪でもなく、小さい結晶と紙切れみたいな結晶が混じった軽くてやわらかい雪でした。
春近し。天からのお手紙をありがたく拝受した朝でした。