こころあそびの記

日常に小さな感動を

石蕗のわたぼうし

 

 花のない季節を楽しませてくれたツワブキが、こんなふうになるなんて知りませんでした。というより、意識を向けないものは通り過ぎてしまう、というやつですね。

 ツワブキが繁殖するのは、この茶色のわたぼうしのせいだったのです。辺りに子孫を残す逞しさと花が釣り合わないようですが、葉には共通点が見えます。

 性分というものは、どこかに痕跡を見せて、なかなか隠せないものです。

 

 

 庭の梅が一輪咲いてから、そのあと足踏み状態です。一番早くにやってきた鵯(ひよ)も、思惑はずれて飛び去ってしまいました。

 そうそう、鴨を観察に行く道すがら、小鳥の囀りが耳に残るようになりました。そんなとき、あぁ、季節が進んでると感じます。

 

 『諷詠十二月』(三好達治著)の二月の冒頭は村上天皇漢詩から始まっていました。

 

 「   梅

  漸薫臘雪新封裏

  偸綻春風未扇先」

 ようやく薫ずろう雪 

 新封の裏(うち)

 ひそかに綻(ほころ)ぶ春風 

 いまだ扇(あお)がざる先

 

 文学の才の持ち合わせのない私が持ち出すのは憚られますが、今日の梅の雰囲気に似ていることが、なんとなく感じられます。

 旧暦と陰暦。ラジオで、その区別は難しいと話されていた暦研究家がありました。

 だからといって、無知を言い訳にはできませんが、この和歌が詠まれたのは陰暦十二月。とすると現行歴では先月から今頃にかけてのようです。

 先日の雪の日などには、ぴったりだったのかも。

 あるいは、あの雪でひそかに綻びかけていた蕾がおどろいて、様子見をしているところなど、この歌の雰囲気でしょうか。

 

 

 三好達治が「詩歌の趣味風味というものは、人生の経験の多寡あるいは品質にかかっている」と、手痛い言葉を残しています。

 確かに、どこまで読み込めるかは経験と才能の両面か必要でありましょう。

 しかし、凡人が読み取るべきところは、色や匂いで十分かと開き直っています。

 

 その点では、芭蕉の『笈の小文』にある、

 「風雅におけるもの、造化にしたがいて四時を友とす」。

 こっちの方が性に合いそうです。

 天然自然の法則を友として生活することが、朗詠にも増して、大切なことかと、我の無知を棚に上げて、思ったりしています。

 

 老梅の梢に遠し雪の山  醒雪

 

 北の国では、こんな感じの二月をお過ごしでしょうか。分かりやすくて、その光景が浮かんできます。