「私なんか定規が折れたんやから」と娘。
「箸が(刺さって)立つんやで」と息子。
悪うございました。子ども達が集まると、いつも私が作ったお弁当の話にひとしきり花が咲いて盛り上がります。
なぜ、定規が折れるのか。それはできたてホヤホヤのうちに蓋をするからです。お弁当箱の中が陰圧になって開かず、それを何とか開けようと蓋と本体の間に定規を押し込んで定規がポキッと折れてしまったという笑い話。それは、みんなの気持ちが一つになる楽しい話題です。
近頃の方はできたお弁当を冷蔵庫に入れて冷ましてから蓋をされると聞きます。完璧なお母様が多くなりました。
それに比べればなんといい加減なお弁当を作っていたのかと思うのですが、一つ弁解させてもらうなら、すべてその日の朝の手作りだということです。
お腹が満たされることだけ考えて、見た目は二の次でした。美しくデザインされたキャラ弁とは程遠いというか、美的観念の欠片もない弁当を持たした母を許して下さい。
今も、朝のルーティンは弁当つくり。
小さなお弁当の献立ですが、これを起きて直ぐに考えるのは何よりの頭の体操になります。お料理は創造です。三口コンロをフル回転させて、煮物、茹でる、炒める、揚げる、の順序と組み合わせが上手くできた日はちょっと自己満足したりして。
お腹を満たすことが一番の目標になってしまったのは、やはり幼児体験から始まっているのでしょう。
焼け出された者同士の結婚でしたから、両親は食に飢えていました。子供たちに美味しいものをお腹いっぱいに食べさせて育てることが、彼らの最優先の念願でした。
私達世代は大概がこのような親の願いの元に育ったのではないでしょうか。
今でも時折思い出すのは、中学生のとき、野球部の顧問をされていた国語の先生が、授業中に「腹が割れるほど食べろ」と部員を激励されていたことです。
「運動部って大変、それほど食べないとだめなんだ」と呆れたように聞いていた運動音痴の私ですが、今思えば、先生も飢えを体験されたお一人でいらしたのでしょう。
でもね、おかげで、私達は美味しいものをいっぱい食べて大きくなりました。それなりにベロの感覚も身についたと思っています。
決してオシャレではなく、あくまでもお腹を満たすことが一番のお弁当。それは、私一代の味ではなく、父母の養いと、もっというなら祖母の台所仕事の流れを汲む我が家のオンリーワン弁当なのです。