このブログ名「こころあそびの記」は、『荘子』の冒頭にある「逍遥遊篇」から採らせていただいています。
もちろん、荘子が日本語で”こころあそび“と残したわけではありません。
福永光司先生が「逍遥遊」を「こころあそび」とルビをふられていたことから、拝借しました。
何年か前に、NHK「こころの時代」で中国哲学を分かりやすく解説されていた先生は、もうすでに鬼籍に登られました。
『荘子』(講談社学術文庫)の“はしがき”に「この原稿を北野高校の宿直室で書いた」と出てきます。母校で書かれたのなら読むしかないと、知らない世界に導かれたのが始まりではありましたが、もともと、好きな世界観でしたから少しずつ齧りながら今日に至っています。
『荘子』のどこに魅力があるか。
そこに書き残されている、何物にも囚われない生き方を良しとする精神だと思います。この世にがんじがらめになって生活する者にとっての希望となっているのではないでしょうか。
精神世界では、子供時分にイジメを経験した者が受けた心の傷はずっと癒えることなく、消極的な人生を歩んでしまうことさえあるといわれます。
そのがんじがらめになった心を解く方法の一つが自然に放つことです。そして、解き放たれた中で拠り所になってくれて、さらには、自由な心を取り戻すきっかけを与えてくれるのが老荘思想だと思います。
これしかないという限定を捨てる勇気を持たなければ、精神の自由を獲得はできない。誰でも自由という特権を持って生まれてきたのに、いつの間にか自由でなくなることが人生のトリックです。
長らく生きているうちに、知らず知らずに身につく限界。いやいや、あの若い人達は生まれたときから限界を知らないようにさえ見えます。そうです。オリンピックの選手たちです。
生まれたときに「こうなりたい」と願った通りの道を歩いてきたかに見えてしまうくらいに爽やかです。
事実はそんな簡単なものではないと知っています。
それでも、あの活躍ぶりは彼らには限界という二文字はないのではないかと思わせます。
そして、てっぺんに到達したときには、他者から受けた加護のおかげという感謝を必ず口にします。やはり彼らは選ばれし修行僧なのだという思いを深くしながら応援しています。
大野将平さんの「皆さんの心が動けば」という思いをしっかり受け止めました。