昨日、昼寝のことを書きましたけれど、こんなに暑いと、同じようなことを考える人がいらっしゃいました。
今朝の「朝晴れエッセー」の投稿者も、子供の頃におばあちゃんの家の広間でシミーズ一枚で昼寝をした思い出を書いておられました。
シミーズ。いつの頃からか死語になりました。
あの頃のシミーズは、真っ白な綿製で、胸や裾には、レースがあしらわれていましたから、今も着てみたい涼しい夏着でした。
蚊帳をつって、蚊取り線香を燻らせて、寝るまで、母に団扇で風を送ってもらった夏の夜。
クーラーなんてない分、幸せだったのかもしれません。
この暑さですから、特にやりたいことがなければ、横になってうつらうつらできることは何よりの贅沢です。
だから、昼寝は夏の季語です。
「昼寝覚」という季語もありました。
昼寝覚うつしみの空あおあおと
川端茅舎
寝入ったところで、ふわりと身を抜け出して浮遊した魂が何かの拍子に体にぶつかりびっくりして目が覚めること、だそうです。
魂が身にぶつかり昼寝覚め
上野秦
この句を詠まれたお二人は、肉体には魂が宿っていると考えておられると推測します。
『魂』という漢字は鬼が浮遊している様子です。
みなさまは、『魂』があると思われますか?それとも、ないと考えておられますか?
私の師匠の大形先生は、『魂のありか』という本まで著しておられるのに、ご本人は、魂はない派です。
それは、先生というお立場を考えてのことと拝察しています。教育者として、ニュートラルな立場を大切にすれば、ないと云わざるを得ないとみています。
『荘子』の内篇、斉物論の中に、かの有名な「胡蝶の夢」が収められています。
荘周(荘子)が、昼寝をしていたら、夢の中で蝶になっていた。我を忘れてひらひらと楽しく舞い遊び、ふと目覚めたら、荘周であった。
これは、荘周が夢で蝶になったのか、蝶が夢で荘周になったものか。
荘子が、『荘子』という書物で訴えたことは、生きていれば必ず直面する対立や矛盾をそのまま内包する混沌です。
小賢しい知恵で分析してみたところで、この世をたくましく生き抜くことはできません。
中哲の主役、『論語』は、知恵を駆使して、この世をうまく生きる方法を説いています。
目上の人への礼儀。
そこには、謙虚という名の媚びへつらいがあります。
概して、為政者に好都合な教えです。
そうではなくて、ひとりの人間として生きるためのバイブルは、『荘子』の方が勝っていると思います。
庶民が精神的束縛を自らに課すことなく、自由に生きるには、宇宙のはたらきに同化することも一策ではないでしょうか。
今日は十六夜。
欠けていく月が、誰に命令を受けることなく、姿を消したあと再び満ちてくる。
その再生力に、古代の人が感じた畏れに共感してみるのに好都合な夜です。
そういえば、昨日、「ラジオ子ども電話科学相談」で、小学生が「月はどうして、自ら光らないのですか?」
と、質問していました。
こんな質問が思いつかなくなっている自分の感性の衰えを情けなく思ったと同時に、先生の説明を理解できる自分もいて、複雑でした。
『荘子』の訳者のお一人、福永光司先生の名訳フレーズにどれほど助けられたことでしょう。「あたえられた現在を素直に受け取ってゆく逞しい精神」をもって、ごちゃごちゃ考えずに、美しいものを、美しいと云える心を失わず生きていきたいと思っています。