今朝、気になったことは、早朝のテレビ番組で新聞各社の朝刊一面が映ったとき、「産経」と「読売」以外の一面に愛子さまの成人式ともいえる晴れ姿のお写真がなかったことです。
みんなでお祝いしたかったなぁ。
さて、今は広く認知されている「花粉症」という病名は、この三十年程で市民権を得た病名です。
病名というのは保険診療するために必要なものです。診療報酬を受けるにあたっては病名と処方薬が合っているかがチェックされます。だから、多くの人にアレルギーが見られるようになったとき、抗アレルギー薬を処方するために「花粉症」という名前ができたのは必然でした。
しかし、くしゃみが出るというのは生理現象です。鼻の中に異物が入れば、追い出すために「ハクション!」とでるのは当たり前です。
その時、自分が「あっ!花粉症になった」と認めたら、「花粉症」という病気を受け入れたことになります。
あぁ、私の生理機能は正常だなと思えば、病名なんて存在しません。
同じようなことが、病名が認定されたために起こっています。
「認知症」もその一つです。
物忘れは、神の恩寵と捉えてはいけないのでしょうか。忘れることで楽になれるのが老いる特権でもあったのに。
長く生きてきたから仕方ないというという諦めは許されない、世知辛い世の中になりました。
元、淀川キリスト教病院ホスピス長、柏木先生がたくさんの最期を看取ってきた経験から「人は生きたように死ぬ」と教えてくださっています。
それに従えば、忘れたいことがいっぱいある人は、いつかしんどくなって忘れてしまいたい!と思う日が来るように思います。
昨日も今日も明日もおかげさまで過ごせば、神の恩寵が必ず降り注ぐと信じましょう。
ボケたっていいじゃないですか。周りの人がかわいいと思ってくれる年寄りになりましょう。そんなおじいさん、おばあさんになれる保証などないと思う人は、柏木先生の言葉を思い出しましょう。
どんなに科学が発達しても、私達が生きてる間にすべてが解明できるほど、この世界は薄っぺらではありません。
俳人の坪内稔典さんの目標が参考になります。
「ゆっくり のんびり だらしなく 日々このように生きたい」。