こころあそびの記

日常に小さな感動を

芭蕉、江戸を発つ

 梅雨寒というのでしょうか、太陽の光の有無が気温差を生じます。
 お手紙に時候の挨拶「不順の候」を使いたくなる今日この頃です。

 さて、誰もが知ってる『奥の細道』。芭蕉が江戸を出立したのは旧暦元禄2年3月27日といいますから、新暦では5月16日のことでした。
 おはずかしいことですが、

 草の戸も住みかはる代ぞひなの家

 の印象から、ひな祭りの頃かと思っていました。
 
 芭蕉は生涯を旅に費やします。
 生きていること自体が旅であるともいえるのに、自ら旅の中に身を置く選択をしたのは、旅することで何かを研ぎ澄まそうと考えていたように思えます。
 旅慣れた芭蕉が梅雨という現象が近づいていることを知らなかったわけはないはずです。しかし、日照時間の少ない秋冬では仕事量が減ってしまいます。日の長い春夏を選んで存分に見聞したかったのではないかと拝察します。
 その上で、もしも、冬の旅を詠んでいたら、また趣の異なる芭蕉が残せたでしょうに、ちょっと残念かもとは思うところです。
 本当はどんな人だったのでしょう。ひょっとすると、彼は陽の人だったのかもしれません。行くところ行くところにタニマチが待ち受ける旅ができたのは、作句力だけではなかったように感じるのです。

 5月中旬に出発して、1か月ほどで梅雨前線に追いつかれます。

 6/29 五月雨の降り残してや光堂
 7/13 静かさや岩にしみ入る蝉の声
 7/19 五月雨を集めて早し最上川
           (日付はいずれも新暦です)

 何年か前、真夏に山寺を訪れて、歌碑の前で喜び勇んで写真を撮ってきた私は、なにも知らない旅行者でした。


 閑話休題。ところで、梅雨は中国で使われた言葉です。日本には平安時代に伝わったとありますが、一般には、江戸時代にならないと普及して来ないのは、芭蕉が梅雨ではなく、五月雨を使っているところからも推し量ることができます。
 
 芭蕉はこの奥州の旅を終えて、四年後の五十歳から『奥の細道』の執筆に取りかかったそうです。いのちをかけて構想を練った作品であったからこそ、すべての人に受け入れて貰える名作になりました。
 芭蕉を敬慕する人が数え切れないのは、やはり冒頭部分の文章に負うところが大きいのではないでしょうか。
 中国の詩人、李白と思いを同じくした人生の捉え方。心掴まれる書き出しです。

 先日、逸翁美術館に『蕪村~時を旅する~』の前期を見に行ってきました。
 私は、蕪村の重要文化財奥の細道絵巻』を密かに愛好する者です。時々、国会図書館のサイトから検索して、うっとり見とれています。
 蕪村は四本くらい書いているようで、逸翁美術館に所蔵されてされている一本が今回公開されています。

 足を運んで、大きな謎が解けました。それは、蕪村の『奥の細道』になぜ人物の絵しか描かれていないかという、かねてより抱いてきた疑問です。
 答がパネルに書いてありました。
 蕪村の芭蕉愛は半端ではありませんでした。
 だから、芭蕉が俳句で描く景色や情景描写の邪魔はしたくなかった。芭蕉という人にだけフォーカスしたかったというわけらしいです。

 私が宝塚歌劇を観るときと同じですね。
 好きな人だけオペラグラスで追っかける。それが、ファン心理というものです。

 芭蕉と蕪村という高尚な関係を、卑近な例にたとえて恐れ多いことです。でも、追っかけ蕪村のことをますます身近に感じたことは確かです。