エンジュが大きな木陰を作っていました。
公園で、出会う人出会う人が、「いいお天気ですね」と、思わず言葉を交わしたくなる朝でした。
上空は高気圧の数珠繋ぎ状態だとか。そんな言葉あったんだ。
とにもかくにも、人々が気持ちよく過ごせる連休であることはありがたいことです。
水月公園の梅林は綱を張って「梅を取らないで下さい」と書いてありました。
菖蒲園。
花はまだでしたが、立て札に記された種の名前を見て回りました。
「春の海」「稚児舞」「時雨の里」「冠獅子」「咆哮の虎」「水玉星」「比翼鶴」「碧涛」「五色の珠」「初鏡」「小町娘」「紫雲竜」「綴錦」などなど。
新種を送り出す生産者の方々の思い入れが伝わってきます。
これらの美しい表現には、花を見る者に対するメッセージが込められている。そう思って、花が咲いたらまた来ることを約束してきました。
文系の勉強に興味が持てず、この年まで打っちゃってきた自分ですが、『光る君へ』の筆文字の美しさにつられて観ています。
まひろが諦観を持ってしまったのは、やはり、道兼に母親を殺された現場を見たことと関係があるのでしょうか。
言うまでもなく、人の考え方はたった一つの事件で決められるものではありません。それは彼女がもって生まれた人格の中にあったとも言えるし、またそれは過去世の経験から培われた醒めた目とも言えることでしょう。
蛇足ですが、前々回でしたか、父親の藤原為時が藤原宣孝に、まひろの縁談を相談したシーンは面白かったですね。
お前の息子の誰かじゃだめなのかと尋ねた父親に向かって、佐々木蔵之介さん(宣孝)がダメダメ、あんなのじゃだめ!と真顔でだめ押しした演技に笑ってしまいました。言外に、自分のものにする!と言ってるのに、父親の為時は気づいてない風でした。
さて、源氏物語の解説本を二冊読んで、ふむふむと思ったことがあります。
当時の知識階級の勉学が、いかに高度なものであったかを知るにつけ、今の教育のお粗末さを思わずにおれません。
それは、教養の部分です。
前回、まひろが読んでいたのは、『荘子』でした。
私も荘子が好きです。
でも、ちょっと変わっていて、逸話ではなくて、天地云々と出てくるところに、意味も分からないのに魅力を感じてしまいます。
たとえば、
「天の為す所を知り、人の為す所を知る者は、至れり。天の為す所を知る者は、天にして生くるなり。人の為す所を知る者は、その知の知る所を以て、以てその知の知らざる所を養う」
(天の営みを知り、人の営みを知る者は、人知の極みである。天の営みを知るとは、天とともに自然に生きることである。人の営みを知るとは、既得の知によって、未知の事象を探ろうとすることである)
天地の文章の海の中に身を浸していると、わけもなく気分が澄んでくるように思うのです。
まひろは『荘子』から何を学んだのでしょう。
『源氏物語』は、白居易の「長恨歌」から影響を受けているといいます。しかし、そういう歴史上に散らばる愛情物語だけが、紫式部に衝動を起こさせたのではないように思います。
彼女は、過去世からの宿縁を思わずにおれなかった現世の環境の中で、諦観を持つに至ったのではないでしょうか。
絡まった糸を解しながら『光る君へ』の脚本を書いておられる大石静さんの精神の熟達ぶりに頭が下がります。
さらには、複雑で萎縮した人柄に外連観を抱かず観られるのは、吉高由里子さんの好演のおかげでもあります。
紫式部が、いままで巷でいわれたように女々しい女流作家だという壁はぶち破られました。千年後に蘇ったまひろの姿に、式部も喜んでいるのではないでしょうか。