こころあそびの記

日常に小さな感動を

夏は今から~

 梅雨が思いも寄らない速さで明けてしまった後遺症があちらこちらに見られます。
 我が家の紫陽花もその一つ。
 早々とドライフラワーになって、しかも一挙に乾燥がすすんだので見るに忍びなくなって、昨日、剪定作業を強行しました。
 過日、万博公園の”あじさい祭り“を訪ねた折に、作業員の方に「こんなに暑いから、花びらも巻いてしまっているのではないですか」と訊いたら、「いや、ここは木立の中、木陰に植わっていますから今のところ大丈夫ですよ」と教えて下さったことを思い出します。
 確かに、薄暗い木立の中で、木漏れ日に時折照らされて咲く様子には、はっとさせられました。
 あじさいは本来、こんなお花なのだと存在の際立つ咲きかたをあらためて教えられたことが、今年の収穫でした。

 娘家族が庭にプールを設営し始めたのを見て、暑さも台風も過ぎて、なんだか夏が終わったような思い込みをしていた自分を払拭しなければと感じています。
 夏は今から始まるのですね。がんばらねば。

 いっときは、購買層は若者とばかり、何もかもが若い人に向いていた目が、高齢者にも少々おこぼれが回ってきた感があります。
 『奥の細道』がやたらと目に付くようになりました。
 芭蕉は、伊賀上野出身ということもあり”芭蕉忍者説“が俎上に載ることがあります。
 その根拠として、能楽師の安田登さんがこんなことをおっしゃっているのを読みました。

 「私たちが東京から日光まで一週間かかるところを、芭蕉は四日で歩いている。それができたのは、芭蕉が能独自の筋肉を使わない”すり足“で歩いたのではないか」と。

 近代スポーツ科学の教えでは、膝を伸ばして、真っ直ぐ前を見て、手は大きく振ると教えられます。
 モデルさんの歩き方である、膝を揃えて、一直線上を行くことが最高に美しいと擦り込まれた時期もありました。

 でも、和服を着ていた昔の日本人がそんな歩き方をしたでしょうか。
 私自身、初めて着物を着せてもらったとき「お股に挟んだ卵を割らないように、泥を跳ね上げないよう、そろりと歩くんですよ。そうそう。」と教わりました。
 茶室では、足袋の音だけが静寂を伝えます。美しい日本文化です。

 いつの間にか、西洋化欧米化して、なんでもかんでも今までの風習は間違いみたいなことになってしまいました。
 何でも、揺り戻しがあるとすれば、今はそのときかもしれません。

 体の使い方から意識改革を訴えておられる甲野善紀さんのご本を拝読しました。その内容については、また、明日以降に。
 ただ、私たちが体で感じることを放棄したことは大きな誤りであるというお考えに賛同しています。

 医者が数値を見て、患者を見ない診察がまかり通るようになっている現実。木を見て森が見れなくなってしまった医療が直面している問題は、医療にとどまらず多くの場面で起こっています。
 それに気づかなければ、生きるとは何なのかもわからないままに悔いの残る人生になってしまいます。

 全身に「気」、「血」、「水」をたぎらせて、存分に生ききるには、教えられたことを守っているだけでは納得できない自分がいるはず。
 自分が感じたように自由に生きることができたら十分満足だという思いに到達せねばなりません。