こころあそびの記

日常に小さな感動を

夏の音

 “茹だる“というだけではまだ足りなくて、瞬間的に茹だってしまうような暑さです。
 そんな日中を避けて、夕刻に歩いています。
 昨日は写真のような一点の残照に出会えました。振り向いたときには消えている。そんな一期一会の現象が嬉しい散歩でした。

 ところで、避暑地のイメージは山ですか?海ですか?
 
 谷川のせせらぎの音が好きな私がYouTubeで選ぶのは、ついこないだまでは、専ら「緑の木々と小鳥の声と瀬音」という環境音ばかりでした。ところが、なぜか近頃「渚の波の音」を選ぶようになってきました。
 この暑さで水辺を恋しく思うようになってきたからでしょう。

 打っては返す波の音は飽きることがありません。f分の1の揺らぎを感じていると気持ちが安らいできます。
 海水浴に行って、テントの中で波音を聞きながら、いつの間にか居眠りしてしまうとか、お気に入りの海岸で、波打ち際に座って水平線と雲を見てぼーっとするとか。  
 そんなときは時間の感覚がなくなって、意識が遠のいていくように感じます。
 
 同じ経験は子供の頃にもありました。
 淡路島に行くと、魚釣りの和船に乗せてもらいました。和船は櫓一本で操ります。歌にあるように底板一枚下は海です。櫓を漕ぐに合わせて揺れる船。そのたびに、底板をチャップチャップと打った海の音を今も覚えています。
 大人たちが魚を釣りあげるまで、その波音を聞いて待つのです。懐かしい響きが海にはありました。
 
 だから、私にとっての避暑は、敢えて暑さで身を焦がす海辺です。
 テレビ画面ではなくて、本物の海に行って、大空間に身を置いてみたい。ちっちゃいでっかい望みです。
 

 さて、暑さが本番となれば、いよいよ、蝉たちの大合唱が連日開催です。
 うちの庭では、クマゼミとアブラセミが朝早くから鳴いています。

 「閑さや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

 蝉といえば、この俳句。
 芭蕉が山寺を訪れたのは元禄2年5月27日といいますから、現行暦では6月の末。
 確かに鳴き始めていたでしょうが、蝉時雨までにはなっていなかったかもしれません。
 時機に合わせて、心象風景を描き出せるところが芭蕉たる所以です。
 一節には、「岩にしみ入る蝉の声」という目の前の風景から、体と心はどこまでも澄んでいく。そんな作句ではないかといわれています。

 同じ調子の音が聞こえ続けるとき、それが波であっても蝉であっても、対象物が眼中から消えて、心一つになっていくことは誰もが経験するところです。
 その音が大切なのです。音がないと心が裸になれません。準備周到な自然です。それに感応できたら健やかでおれそうに思えます。

 今夕はヒグラシのカナカナを聞きたい。
 太陽が西の山際に近づく頃に鳴きだすかれらの声は、限りなく心をほぐしてくれます。
 山の方へ歩いて行ってみるとしますか。