こころあそびの記

日常に小さな感動を

童心

 

 田子の浦ゆうち出でて見ればま白に 

 ぞ富士の高嶺に雪はふりける

     万葉集巻三 山部赤人

 

 今週、北海道では平地にも初雪がうっすらと積もったと報じられました。 

 それより前に、富士山はとっくに冠雪していて、私みたいに無教養な者にも赤人の歌を思い出せます。

 名歌は何度も口ずさむことで、その情景の中に浸り、あるいは折りに触れ味わうことで残っていきます。

 晩秋の11月。関西に初雪が降るのはいつでしょう。

 

 

 少し前に、朝刊の『朝の詩』に「はじまりとおわり」という作品が掲載されました。

 

 私たちは生まれてきたわけも知らず生きて、死ぬわけも知らず死んでいく。宇宙の始まりも見ることなく、終わりも見られない。

 私は夢幻を生きている。

 

 そんな内容だったかと思います。

 なぜ、薄ら覚えしているかというと、彼とは別の意味で私も「初めと終わり」に興味があるからです。

 日々生活する中で、ずっと頭の片隅から離れないのは、シンプルな姿で生まれてきてシンプルに死んでいく、ということです。

 その過程に、生活があり、学習があり、体験があります。

 初めの自分と、終わりの自分は同じでしょうか。それとも、成長しているのでしょうか。

 どちらかというと、生まれたままで死んでいくように思える姿に見えるとき、なぜだかわからない安堵感が広がります。

 

 

 過日の講演会で、中国明代の李卓吾という陽明学者が「童心説」を説いていることを知って、同じようなこと考えた人がいたことを心強く思った次第です。

 もちろん、幼稚な私の疑問とはかけ離れていることは承知しています。

 ただ、そんな考えがあることが嬉しいのです。

 偽りない純粋無垢な童心は、外的規範によって失われていく。

 Wikipediaの情報には、吉田松陰本居宣長も賛同していたと記されています。

 

 

 

 私は童心は無くなっていくのではなく、存在し続けると思う派です。

 この世の荒波に洗われても、自分に内在するものは変わらないと思っています。

 シンプルに生まれて、ぐちゃぐちゃな現実に晒されて、それでもシンプルな自分を無くさずこの生を終える。

 だったら、成長ないじゃんという意見があるでしょう。

 しかしながら、人が人たる理由は自然と同じく、美しいことではないかと思っていたいのです。