こころあそびの記

日常に小さな感動を

日本人にとっての自然とは

 

 線路脇に白い椿が咲いていました。一輪ずつ凛とした存在感を示すのが椿です。

 

 

 秋の初めから色のない冬を通して咲き続けてくれた山茶花が、いよいよ散り始めました。花びらが円形状に散り敷く様子が美しい。椿には見られない固有の美です。

 見逃してしまいそうな自然の移り変わりを発見することが、楽しみになっています。

 

 

 もう少し行くと、ある場所にいい香りが漂っていました。数歩進んでも、退いても香りません。

 足元に数輪の水仙が咲いていましたし、梅もチラホラ開いています。

 でも、この強い香は違う。と思っていたら、梅林の一番奥から、おじさんが蝋梅の枝を数本切り取ってこられたところに遭遇。この香り、この香り。

 「今年、咲き終わったら伐採と、役所に云われてます」と残念なお話。

 見納めの梅に先駆けて、強い香りで主張する蝋梅の花でした。

 

 

 今日は、BSで『日本沈没』という懐かしい映画が放映されていました。

 その手の映画、つまり、怖い話が苦手なので見たことはないのですが、小松左京さんが、なぜ、これを題材にしようと思われたのかは知りたく思います。

 

 

 近頃、トルコとシリアの国境付近に大きな地震があったばかりです。

 一日に二度も大きな揺れに襲われた人々の恐怖は想像を絶します。しかも、現地は零下の気温が続いているそうですから、罹災者の健康管理は確保できているのでしょうか。

 さらに、昨日あたりから、治安の悪化が伝えられています。

 もともと、シリアの内戦など、条件の良くないところで起こった災害です。人心が乱れている時には何が起こっても不思議はないのでしょう。

 

 それでも、ちょっと疑問です。

 中東は気象条件も土地柄も恵まれてはいない地域です。厳格な掟で、この環境下で生きる人々の拠り所を作ったのでしょうか。キリストをはじめ、イスラムユダヤと、たくさんの宗教が発生しています。なのに、なぜ人々の心は荒廃したままなのでしょう。

 

 それにひきかえ、自慢じゃありませんが、日本で大災害が起こったときの人々の行動は世界から賞賛を浴びるものでした。

 「困ったときはおたがいさま」

 「みんなで乗り越えよう」

 誰かが指導しなくても、自然発生的にそういう輪ができあがります。

 平素、柔に見える若者さえ、へこたれることなく我慢ができる強靱さがあるのです。

 

 それは、大災害をいくつも経験してきたことや同一民族であったことなどが原因といわれます。

 しかし、もっと深い原因は宗教を越えて、心を一つにできるところではないでしょうか。

 それは、自然を畏れ敬ってきて培われたものだと思います。

 取り立てて、「共生」と云わなくても、共生できている日本。この国に生まれたことは奇跡です。ありがたいことです。