南側から坂道を上って、鳥居をくぐると、幾本かの句碑が並んでいます。
先日は、「日を探す木陰の草や水ぬるむ」と目が合いました。今は、まさにそんな時候。作者の季節の読み取り方を楽しく拝見しました。
そこを通過してお寺のほうに上っていくと、大黒様がいらして、さらに次の石段を上ると「箕面聖天宮」に行き着きます。
由緒は「658年、役行者が開山された霊場」とあります。役行者が箕面山で修行中に歓喜天が出現したことによるそうです。
歓喜天の御利益とは、夫婦和合とか子宝に恵まれるなどと説明されているので、私にはもう過ぎたことと、いつも、ごめんなさいして、その上の展望台に向かっていました。
昨日、友人のまた友人から、お手紙に添えて、写真が送られてきました。
「箕面市美術展に聖天さんの縁起を描いたアクリル画を出展しました」とありました。
そこで、あらためて、「聖天さん」とはなんぞやと調べてみる気になりました。
彼の描かれたのは象頭人身の聖天さんです。
これは、ヒンズー教のシバ神のお子様です。
インドという土地は、訪れた者に衝撃を与えるといわれます。たとえば、荼毘にふされた死体が、沐浴している人の横を流れていく光景です。
それまでの自分を根底から覆されて、自分とはなんぞやという気持ちになることでしょう。
インドには、3333の神様がおられるとのこと。つまり、インドという土地に五千年以上培われた文明は、変幻自在という思想を持ったといえます。
象頭人身の神様を生んだ土壌は、「変化」とは変化しないものが変化すること、ということを発見しました。
わかりやすい例として、私たちはオギャーと生まれてこの方、変化成長したように思っているかもしれませんが、元の自分であることに変わりがありません。
また、『胡蝶の夢』を残した中国の荘子は、「まことの自由とは、万物が究極的に一つであるということ」と説いています。
万物はその時々で変化(物化)するものです。ゆえに、道の途中の姿に一喜一憂することなく、真実を見ること。それが、諸行無常の中の常住の追求になります。
今まで見過ごしていたこの看板ですが、次に通るときにはお詫びしてお参りしたいと思います。