朝刊の一面は、大見出しをすっ飛ばして、「朝の詩」「朝晴れエッセー」を先ず読むのが私の流儀です。
世の中がどうあろうと、一瞬の喜びや驚きに心ふるわす庶民の生活が、活写されているところに惹かれます。
今朝も、「朝の詩」を読んで、うまい!と”はなまる“あげたくなりました。
離れて生活している娘さんに荷物を送った話です。
ご主人様が指示されたので、歯ブラシを十本入れて送ったら、「こんなにいっぱいアホか」と娘さんからメールが返って来たそうです。
即、夫には「あの子から『こんなにいっぱいありがとう』ってメールが来たよ」と伝えました、と。
たったこれだけのこと。
詩を読み終わってから、題名を見たら「同時通訳」でした。そのうまさにまたギャフンと云わされました。
前に出なけりゃ損という風潮が、世間を息苦しくしている今日この頃。
マスコミやSNSなど、派手な動きを良しとすることに人々が疲れてはいないでしょうか。
昔の人は言いました。
「お天道様が見てござる」。
誰も見てなくても、神様が見ておられる。いいことも、悪いことも、お見通しですよ。と。
良い行いをそっと積み重ねることを「陰徳を積む」と言います。
陰徳を積めば、必ず良い報いがある、とは『淮南子』の人間訓に出てくる言葉です。『淮南子』は中国、前漢時代に書かれた思想書です。
つまり、陰徳という言葉は紀元前から、人間にとって望ましい行いとされていたわけです。
未だに、生き方の要諦として、生き続けているということは、人間に進歩がないからでしょうか。
ただ、「陰徳陽報」というのは、中国的かもしれません。
日本では、報いを考えることは、恥ずかしいとされます。すべては「お天道様」にお任せです。
いい報いを期待して、ある行いをするのは、陰徳とは言いません。巡り巡って、いつか、だれかにという、頼りない話を信じることが「陰徳」の本質のように思います。
そして、良い行いにも、いろいろありましょうが、日々の生活の一コマでそれが活かされるのが一番ではないでしょうか。
そういう意味で、今朝の「朝の詩」の作者のお心に、優しさと温かさを感じたのです。
夫への心配りができる賢い機転。これができる人こそが陰徳の人と感心しました。
作者は、頭がいい人だと拝察したことです。
世の中には、お手本になる人がいっぱいです。