こころあそびの記

日常に小さな感動を

うれしいお便り

 

 雨が、昼間から屋根を叩いています。

 「3月の風と4月の雨が、5月の花をもたらす」と言い伝えられてきました。

 その通りに自然の循環が、違わずに繰り返されていることに安堵して、雨音を聞いています。

 そんなところに、春を呼び込む、うれしいお葉書が舞い込みました。

 梅が咲いて、桃が咲いて、この雨で桜が散れば、季節は春らんまんに衣替えです。

 孤独な心に投じてくださった一輪の花で、少しずつ胸を温めています。ありがとうございます。

 

 さっき、手持ち無沙汰でテレビをつけたら、紙芝居インフルエンサーというおじいちゃんが映し出されました。

 元、教員をされていた経験から紙芝居を手作りされています。その心は。

 「授業の中で、絵に描いて黒板に張り出すと、今まで聞いてくれなかった子供たちがハッと顔を上げてくれるんです」。

 言葉で伝わらないことが、絵に描くとイメージできて分かりやすくなります。

 彼は、絵が持つ魔術を実感して、今は、紙芝居を地域活動に生かしておられらるようです。

 

 

 話は飛びますが、私たちがお寺参りをするのも仏像があるからだと思いませんか。

 森羅万象に仏が宿るといわれるだけでは頼りない。そこに、象あるものが欲しいという幼さが人間の善性です。

 また、この世の荒波を越えた後に、果たして極楽に行けるのだろうか。はたまた、極楽はあるのだろうか、というのも関心事です。

 行き着くところ、すべての人々の望みは、永遠の安心です。

 

 「阿弥陀経」には、極楽の美しさ、荘厳さが書かれています。

 

 「極楽国土には七重の欄楯、

 七重の羅網、七重の行樹ありて、          みな、これ四宝をもって周帀し、

 囲繞せり。これゆえに、 かの国を名  

 付けて極楽という。」

 

 母が亡くなったとき、「阿弥陀経」を写経して見送ったのは、どうか、極楽に行けますようにと願ってのことでした。

 現世の人間が追善供養すれば、往生したあとの極楽行きが早まると聞いていたからです。

 漢字を写しながら想像する世界もありますが、目で見ることのできる極楽のほうが、はるかにわかりよいことは確かです。

 だから、仏像ができ仏画や壁画ができたのだと思われます。

 

 宇治の平等院鳳凰堂の堂内に入ると、来迎の絵図が見えます。

 知恩院には、「阿弥陀経曼荼羅図」が所蔵されていて、極楽浄土のありさまが描かれています。

 

 

 ”仏画、仏像“という手段。

 見えるものを写すのではないところに、制作者の想像力と後世への伝道の意欲を感じます。

 雨で閉じ込められたから、仏像の解説を読んでます。今後は、不動明王の目玉の方向をよく見てみようなんて。この年になっても知らないことだらけで困ったもんです。