桜の木の下で、こんなベストショットが撮れました。
夢中でシャッターを押してるうちに、ファインダーの中から、どこかに消えていってしまいました。
青空の青色、シベの濃い紅色、若葉の若草色。
色のない季節から一転、色彩の溢れる美しい春がらんまんです。
子ども科学電話相談で、「蝶々が僕の手に止まるのは、僕のことが好きだからですか!」と質問した坊やがいました。答えは、今のところ蝶々に感情は備わってないとされているというものてした。
いずれ、生物の進化に合わせて、すべてのものに備わる、いや、ひょっとすると科学では証明できていないだけかもしれません。交流はきっとあるのではないでしょうか。
汚れない心で見ることのできる子どもは、手に止まった蝶に感じるものがあったのでしょう。
子どもの昆虫採集入門は、蝶々から始まります。あのヒラヒラと飛ぶ様子が人心を誘います。
ところが、美しい姿とは裏に“魂“というキーワードを持つのが蝶々です。思わず、魂が浮遊していると捉えてしまう妖艶さをもっています。
ゆっくり飛んでるように見えるのに、捕まえられないもどかしさ。荘子もそんな体験をしたのでしょうか。
荘子が、蝶と自分の入れ替わりを著したものですから、それ以降、多くの人に影響を与えています。
初蝶を夢の如くに見失う 虚子
昨日は母の命日でした。
日頃の怠慢をわびながら、仏壇の掃除をして、お茶とお花をお供えしました。
昔、母が好んで着ていた着物に黒地で白の蝶々が絞り抜かれている一枚があります。
その着物がよく似合っていましたので、その着物を着ている母が好きでした。
ところが、蝶々に“魂の浮遊”という意味があることを知ってからというもの、箪笥の奥深く眠ったままになっています。
花びらの散った桜の木は、蝶々をはじめ小鳥や蜂など、花盛りのとき以上にたくさんの来訪者で賑わっています。
いろんなこと考えながら、その様子をうれしく思って眺めています。