キンモクセイの枝の中で、伸びた新芽に隠れるように雀たちが騒いでいます。若葉に毛虫がついているのでしょうか。おしゃべりしたり、隣の木に飛び移ったり楽しそうです。
その木の下で仲間外れの私。
人は、鳥のように飛びたいという願望をもっています。
少し前には、スピッツが、「きっと自由に空を飛べるはず」という歌詞を歌っていました。
最高に解放されていく方法は、空を飛ぶことだと鳥の姿に学んだのは、古今東西を問いません。
秦の始皇帝も、そんなひとりではなかったかと想像します。
穏やかな日々は殆どなくて、常に陰謀の中で生きなくてはならなかった。そんな中で、もし彼が人間の心を持つ人であったなら、平和な世界への憧れを持っても不思議はありません。
それが、神仙世界だったように思います。
彼のお墓、兵馬俑の壮大さは、自分の死後を安泰にしたかったのか、それとも、恐れを表現しているのかは不明です。
ただ、不老長寿を目指して仙人になりたいという願望があったのは確かです。
つまりは、死にたくなかったのではないかと推察できます。それは、死の世界から逃げたかったともいえます。
現世に留まりたいから、仙人になる薬を探させます。
それは、東方にある蓬莱山にあると教えられ、鵜呑みにして捜索隊の帰りを海の見える場所で待ったといいます。
広大な中国大陸に住む人で、海を知る人は少数です。水平線の彼方にユートピアがあると思い込んでも不思議はありません。
それが、たとえ蜃気楼であったとしても、見たことがなければ信じてしまいます。
結局、秦の始皇帝は仙人になれなかったのですが、彼の追い求めた蓬莱思想は日本にも伝来しています。
それは、日本庭園に見ることができます。
日本庭園は小堀遠州などの作庭とい説明されると、日本独自に発達したものかと勘違いしますが、その源流は秦の始皇帝の時代に遡ります。
蓬莱思想を表現するために、蓬莱、鶴、亀の石組み、そして、「心字池」が配されています。「心」の形は楷書じゃなくて、草書だそうです。道理で、繋がってると思いました。
小鳥の話から随分逸脱しましたが、自由に飛び回る姿に、人は古くから憧れてきたのは間違いありません。
でも、「鳥人間」はおろか、「空飛ぶ自動車」が現実のものになりつつあります。
人の欲望の行きつく先を小鳥たちはどう思って見ているのでしょう。