こころあそびの記

日常に小さな感動を

雑感

 

 睡眠の話ばかりで恐縮です。

 今朝がた、といっても時計を見ると午前1時。なにかに起こされたように思って、目覚めました。

 その正体は月光でした。

 欄間から漏れた満月の光が部屋の中を明るく照らしていたのです。

 夢の世界です。白くて厳かな光でした。

 早めに就寝したものですから、元気は復活しています。とはいえ真夜中です。勇気をだして外に出て、お月様を撮影しました。月光に象られた自分の影を踏みながら、空を見上げると、夏の大三角が天頂に輝いています。

 それを見て、お盆の流星群の日が近づいていることを思い出しました。

 月光に起こしてもらって良かった。 

 美しい夜を堪能できました。

 

 炎暑にまつわる話をカーラジオで仕入れました。

 日本では、「君はぼくの太陽だ」という言葉に嫌悪感を持つ人は少なくて。同じように、ヨーロッパでも、「ユーアーマイサンシャイン」とか、「オーソレミオ」と、いわれるくらいですから、太陽信仰は当然のように思われます。

 ところが、中近東では、それはタブーとのこと。

 それくらい太陽の熱がすざましいということです。

 彼らは、夜型です。月の巡りが生活に組み込まれています。ラマダンという断食も夜間に行われます。

 砂漠を進む駱駝の隊商の絵が幻想的なのは、夜だからでしょう。

 太陽が上れば終了します。

 

 今日は月光で目覚めたから、イスラム世界の夜を身近かに感じられたのかもしれません。

 

 

 早起きしたから、というわけではありませんが、万博公園に足が向きました。

 日本庭園。遠くに見える蓮池の様子がいつもと違う。池一面にハスの花が開いていたのです。

 なんでこんなに咲いてるの?

 そこで初めて、朝だったことに気づきました。

 

 

 睡蓮だって、まだ眠りから覚めたところで、湖上にかけられた橋の上はさながら夢の世界です。

 ”夢“づくしの一日に思えたのは、半覚醒だったからかな。そんな日があってもいいですよね。

 

 

 前回来たときよりも、足の調子がよくなっているように感じて、うれしい散歩でした。

 歩きながら、どうして、私は体が自己修正することに、つよい思いがあるのだろうと考えました。 

 

 まず、運動神経が最悪。先生に走ってこい!といわれても、跳べといわれても、できなかった学生時代。

 いいもんね~ちゃんと歩けるもん。生きていけるもん。と開き直った生徒はかわいくなかったでしょうね。

 でも、今になって思うのは、昨日出来たことが今日出来ない、という思いが少ないことのありがたさです。

 もともと、出来ないことだらけだから、今になって嘆くことがありません。諦観を早々と手に入れていたとも云えます。

 

 

 それから、肉体の損傷からの復活も、私の思いに大きな影響を与えています。

 小学校六年生のとき、転倒して、運悪く落ちてた空き缶で思いっきり腎臓を強打しました。

 その場に横たわったままでした。

 腎臓の様子を探るのは尿しかなくて、血尿が出ている間、入院しました。

 腎臓に薬はありません。

 しかしながら、その後、ちゃんと治りましたし、出産もできました。自分はラッキーだったかもしれないけれど、その経験は、自然治癒力を信じるに足るものでした。

 

 体は自分で治そうとしてくれている。昨日より今日、今日より明日。きっと良くなっている。

 

 このことを、私はみんなに知ってほしい。